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 そいつは手のひらにびっしり英単語を書きこんでいた。
 耳なし芳一だったら手のひら以外は食い尽くされるな、と思った直後にぼくはじぶんにつっこみを入れる。それは耳なしじゃない。耳どころじゃなし芳一。
 さておき、ぼくにとって織田テツの第一印象はそんなだった。暗記か? それともカンニング? あからさますぎて逆にバレないだろうか? そんなわけはないが。
 また、制服があってないようなこの学苑にあってもやつの帽子は異彩を放っていた。サイドの耳あてが犬の耳のようで、本人の小柄さもあってすこしかわいらしさすら感じる。
 ともかくその織田くんが、3限めの終わった休み時間にぼくの席までやってきて話しかけてきたのだ。
「よう」
「はい」
 フレンドリーにあいさつされてもぼくは困る。たしかにこいつはクラスメイトだし、わりとにぎやかなので目立っている存在ではあるが、あまり面識がない相手と積極的に話す習慣はない。
「立花とおまえは仲がいいみたいだから単刀直入に訊くんだけどさ」
「とくによくないよ?」
「……」
 なんか機嫌をそこねたみたいだ。唐突な発言に即答で切り返すなどという慣れないマネはするもんじゃないな、と思った。
 ここはこちらが折れて、なだめてあげるべきだろう。
「ごめん。なにを訊こうと思ってたのかだけ、話してくれてもいいから」
「なんで上の立場からしゃべってんだてめえ」
 織田くんはさらに怒りをみなぎらせてしまう。
 べつに上の立場なんてつもりはなかったのだが……なんだろう、この男を見ていると思わずかまってあげたくなるというか、やさしくしてあげたくなるというか、親切にしてあげたくなるというか、『あげる』がつく行動をとりたくなってしまうのでそれはすなわち上の立場から見ていることに結果的になっているんだろうか? だがこの場合の上と下という価値観はなにを基準と
「黙ってないで質問に答えろよバカ野郎」
「え? あ、ごめん、聞いてなかった」
 また怒り出した。どうもかなり短気な男みたいだ。
「たいぎー、わざとやってない……?」
 見かねたのか、おんがくが横槍を入れてきた。
「わざとだなんて」
 人聞きの悪い話だ。ぼくはなにひとつ意図的に織田くんをからかっているわけではない。ただ……その……かれを見ていると身体が勝手にからかおうとするのだ。
 そう手短に説明した。
「……わざとなんじゃん」
 すげえ冷ややかな目で見られた。おんがくにあきれ果てられるなんて!
 ふと見ると、織田くんはちくしょうめ負けてたまるか考えろ考えろと村野武範が吹き替えたブルース・ウィリスのように唱えつづけていた。その鬼気迫る姿にぼくはちょっと気圧されたが、勇気をふりしぼってこちらから話しかけてあげる。しまった、まただ。
「立花さんについてぼくが知ってることは、せいぜい父親を『お父さん』って呼ぶという意外な一面があることぐらいだよ」
「おもしろい情報だけど役に立たねえなあ」
「なんの役に?」
「それは言えない」
 むかしのマンガには『いまは言えない』『それは教えられない』で重要なことを棚上げしてとりあえず話を進めることがあったが、ここは現代で現実で学校で教室だ。
 ぼくは織田くんの両肩をつかんで問いつめようとした。
「知りたいのは立花さんの弱点なのか? なにを狙ってるの? 悪いことは言わ──」
 織田くんはうっとうしそうにぼくの両手を払いのける。いともかんたんに。
 見た目に似合わない膂力!……立花さんと番長対決でもするのか?
「おれが知りたいのは、ひとつだけ。おまえが考えてるような悪辣なこっちゃない」
 なんだろうか?
「来週の歌唱祭のとき、キカちゃんのバックコーラスが必要なんだよ。言うこと聞かせられるのは立花だけだろ? 方法を教えてくれないから、立花の弱みを握ってそこにつけこんでキカちゃんを説得させようと思ってるってだけ」
 悪辣だよ。
「来週か……じぶんで会話を試みてみたら? 例のチャンネルでやってるスペイン語講座って、1週間でどのくらいのことが勉強できるんだろう?」
「あれスペイン語なのかよ」
「たぶんそうじゃないかな」
「……英語で手いっぱいだよ」
 英語も苦手なようだ。してみると、あの手のひらのは苦手克服トレーニングだろうか?
「ともかく別口をあたってみるよ。迷惑かけちまったな」
 ここで見送るべきだった。
 しかし失意の織田くんが、あまりに捨てられた仔犬みたいな顔をしてこちらを見るものだから、
「よし。ぼくがひと肌脱ごう!」
 ノリで胸を叩いて安請け合いしてしまったことが、事件の本格的なきっかけとなるとは。だれが予想しただろうか──

「へくちっ。まあがんばってくださいね、大儀く……ずーっ」
 上級生にひとり強力な予想屋、もとい預言者がいたが、いまちょっとカゼをひいているらしかった。



「いいのかな、授業サボっちゃって」
「授業のひとつやふたつサボれないと大物生徒にはなれねえぞー」
 いえてるかもしれない。が、大物生徒ってなんだ?
 織田くんは、となりで歩きながらそのことばを神妙に検討しているぼくに満足したのか、視線を正面に戻した。そして話題もじぶんの話に戻した。
「もともとおれとあの立花には因縁があるんだよ」
「因縁ね」
 ぼくと織田くんはすでに授業が始まって無人となった廊下を行軍していた。きょうの祭りは何組がどこらへんでやってるんだろうかな。
 立花さんは会いたいときなかなか出遭えない。おかげでなんとなく、いざというとき使えない男というイメージがぼくのなかで勝手に定着している。
「あいつ、おれが入学するまえからここの生徒だったんだけどな」
「そりゃ、ほんとなら高等部なんだしね」
 ぼくらの年代で年齢差3歳といえば、ふつうに考えたら絶望的な断絶だと思うんだが、あの男はそういうことを一切気にしてないのでうっかり忘れがち。
「あいつおれをひと目見てなんて言ったと思う?」
「初等部はあっちの校舎だぜみたいなことを言ったんだよね?」
「……」
 まるわかりだったけど、正解を先に言うべきではなかったのかもしれないな。
 どれだけ月並みでありきたりだとしても、ときに真実はひとを傷つける。
 いかに見たまんま明白だとしても──
「おまえ沈黙してるときは常にすっごい失礼なこと考えてるだろうなあおい!!??」
 帽子の耳当てをぴこぴこ動かしながら、織田くんは湯気でも出さんばかりに怒っている。
「そんなどうでもいいことより、立花さんは探しても捕まらない相手だよ? 直接キカちゃんを見つけたほうがマシかもしれないぞ……まああの子もかんたんには拾えないけど」
 なぜクラスを同じくするにもかかわらず、遭遇することから危ぶまないといけないような相手ばかりなのか。言いながら疑問がふくらんできたが、考えるだけムダなのでやめることにした。
 と、ぼくはここで根本的なことに気づく。
「なんであんな危険なやつにバックコーラスなんかやらせようとしてるの?」
「おまえあいつの歌聴いたことないのか?」
 るおるおるうるう言ってる以外の姿を見たためしがない……
「ああ、曲目は夜明けのスキャットとかなの?」
「なに言ってるんだかわかんねーよ」
 じぶんは知識が偏ってるのだろうか、とセミプチ悩んだぼくだったが、それはおいて疑問に戻ることにする。
「つまりキカちゃんは歌がうまいってわけなんだ?」
「人間と思えないぐらいの歌声だぜ」
 ちょっとだけ誇らしそうに、織田くんは言った。
「今年の5月ごろにちょっとした事件があって、そのときにあいつの歌を何人かが聴いてる。そのとき歌わせたのが、立花だったんだよ。そのへんのことがあって立花はキカ係に任命されたついでに、高等部1年兼中等部4年とかいういかれた扱いになったってわけ」
 聞けば聞くほど真剣に考える気が失せてくる異常な学苑だと思う。
「立花さんはなんでスペイン語堪能なのかな」
「わかんねえ。あいつもいろいろ苦労してたっぽいけど、外国でなんかしてたって話は聞かないけどなあ」
 さっきから織田くんはせわしなく手に油性ペンで英語の書きつけをしている。おまじないではないようだ。備忘録?
「ずっと気になってるんだけどなに書いてんの? 単語帳代わり?」
「ちっげえーよリリックだよリリック」
「……歌詞?」
 ふと考えてみたら、来週歌唱祭があるということは、クラスで歌うということなのか? ぼくもそれに参加することになるのなら練習する必要はあるんですよね? みたいな疑問を持ったのでその場で織田くんに訊ねてみたところ、
「ああ、3日前からみんなで練習すっから心配すんな。時間はちゃんととってある」
 3日……
 おんがくがいつぞや言っていた、優秀な人間が集まる必要があるってのもまんざらジョークやハッタリじゃないようだ。
「この手に書いてるやつは途中で入るおれのソロパートだからおまえのおぼえるとことは関係ねえ。最高のライミングのためには思いついたら忘れねえうちに即メモんねえと」
 なんでこの手のひとって、素人にはあきらかにわからないように説明するんだ?
 ぼくがさらに説明を求めようとしたとき、廊下に立ちふさがる人影があった。
 あきらかに阻止するために立ちはだかったタイミングだ。ぼくらは反射的にきびすを返そうとする。機先を制して、そいつは言った。
「お待ちなさい。逃げようとしてもムダです」
 その女の子はゆっくりとなにやら取り出そうとする。
 ぼくらは警戒もあらわに身構えた。いま思うと、すこし無意味な行動だったかもしれないが。
 彼女のポケットから出てきたのは拳銃なんかではもちろんなく、もっと絶対的な破壊力を持つものだった。
 紙切れ、1枚。
「令状です。ヶ原大儀、織田テツ」
 ……ほら。やっぱりおおごとになった、とぼくのアタマのてっぺんあたりにまだ残っていた理性が総動員でブーイング。
 おかげでもっと重要なことに、ぼくは気づかない。
 ぼくらの罪状は、サボリなんていう日常的でささいな問題ではなかった。
 彼女のつぎのセリフによって、ことは日常を維持するしないという次元ではないという事実に、ぼくたちはぶちあたった。
「あなたたちを1時限まえに発生した爆弾騒ぎの重要参考人とみなし、ご同道をお願いするものです」
 もっとも、あちらにしてみれば、これはりっぱな日常かもしれないのだが。



 令状をつきつけた女子は、おかっぱ頭のえりあしを揺らしながらぼくらを生徒指導室にしょっぴいて歩いていった。その途上、ふと思いだしたというように振り返り、
「申し遅れました、わたくし1年丙組風紀委員のイマダです」
 と名乗る。風紀委員。この学校では委員会のシステムはわりとオーソドックスだ。
 そのぶん異様なのが部活動だが、このへんのくわしい話はうんざりするのでまた日を改めるとして、ぼくは彼女に質問した。
「イマダさんはなんでぼくらをひっぱってくる役目なんかおおせつかったの?」
「顔をおぼえていたのがわたしだけだったからです」
 イマダさんはものすごく憮然とした態度で答える。
「仕事を選べるものですか」
 そこまで不本意な仕事だったのか。わがことながら、ちょっと気の毒。
「そもそもあなたたちが授業をさぼったりするから、ムダな疑いをかけられるのに。瓜田に靴を入れず李下に冠を正さずということばをご存じないのですかまったくもう」
 ブツブツと怨みごとをぼやきはじめた。この子もわりとじぶんの世界に入りこむタイプだろうか。思いながら織田くんのほうを見ると、かれはイマダさんの死角にすべりこもうと腐心していた。スキを見て逃げだす気でいるらしい。
「で……」
 注意をそらすつもりもなかったが、ぼくはただ気になって訊ねた。
「爆弾ってのは?」
「ああ、はい。けっきょく爆発物ではなかったそうなのですけど──」
 彼女はなんでもなさそうに事情説明に入った。どうやらぼくらを犯人とはまったく思っていないようだ。
 まあ再来さま事件のときとちがって、今回はぼくも織田くんも正真正銘、清廉潔白だけど。
「ただ、本気ならいつでも吹きとばすことができる。今回のような対応では本物には対処できまい、というアピールなら……これ以上のものはないでしょうね。しかけた犯人については目下捜索中です」
「そりゃ、そんな対応できる学校はめったにないだろうけど」
 発表しただけで敗北宣言になってしまうような事件は、できるだけなかったことにしたいのが、いつの世もどんな立場でも、ひとの性だ。
「けどまあ、まちがいを認めることは大切だからな」
「認めては困ることだってあるんです!!」
 ぐりんっと怒りの形相を向けて、イマダさんは思いつめたように訴えた。
「……それでは、困るんです」
 ……なるほど。
 もうすこし、くわしい事情を聞く必要がありそうだ。



 ぼくはここでふと思ったんだが。
 甲乙丙丁ってあきらかに優劣決まってるイメージないだろうか。まるでぼくらのクラスはおちこぼれ集団みたいだ。不公平だ。
「なにを考えこんでいるんですか?」
 その丙組のイマダさんが、ぼくの表情をいぶかって訊ねてきた。
「いや、ちょっと気になったことがあって……さっき『困る』って言ってたじゃない? あれってどういうことかなと」
「ほんとうにそれが気になってたんですか?」
 鋭い子だな。
「なんでおそれいってるのかわかりませんが、まあいいです。
 なぜかと問われれば答えはかんたんです。
 この学校には、なにごとかが起こってはいけないんです」
「……毎日なにごとかあるのに?」
 ぼくのつっこみにも似た問いに、こくりとうなずいて、
「無事、毎日なにごとかあるためにです」

 生徒指導室はあたりまえだが威圧感をかもしだす密閉状況であり、ぼくはごくりと唾をのみこむと、
「おてやわらかに」
 とだけ言った。
 だが待ちうけていたいかにも勤勉そうな風紀委員は、その見た目どおりかけらも手やわらかくするつもりがないみたいで、
「期待しないでくれ。心苦しいが、おまえはふたりぶん尋問を受ける立場にある」
 え、とぼくは背後を見る。
 その空間には、織田くんの輪郭のかたちをした点線が点滅しているだけだった。
「……あんのやっろーう!」
 いやもちろん、逃げようとしていたのには気づいていたんだけれども、これほどすばやいとはさすがに予想できなかった。
「自己紹介をさせてもらう。風紀委員中等3年統轄の足藤たるどうだ。よろしく」
「ええ、よろしくどうも……それで、なにがあったんです?」
いまだくんからどれくらい話を聞いているのかな」
「びびらせるためのダミーだったらしいって話は」
「そうだ。われわれの対応が遅いことをせせら笑うためだけのダミーだ」
 遅い?
「でも、ようするに発見できたんでしょう?」
「警察を呼ぶほかない状況に追いこまれたところで、あやうくダミーだと看破できたにすぎない。そうでなければいまごろ避難放送でみんな学校を追いだされている」
「警察にまかせるのが筋なんじゃ……」
 未さんと足藤さんの視線がつきささった。
「わたしがさっき言いかけたことがおわかりでない?」
「ちょっと考えてみたまえ」
「えーと、この学苑は祭りのためにあって、祭りがとぎれたら科学的根拠はないけどこの地域に確実に災いがおとずれる」
 ふたりは首肯した。
「つまり警察沙汰なんかにしたり、学内から避難させたりしたら地域住民に迷惑?」
 さらに力強く首肯した。
 なんかこいつら。
 本末転倒ってことばを辞書で引いてくるべきじゃないのか?



「ええと、それで」
 不平ばっかり胸のうちでつぶやいていてもしかたないので、ぼくは足藤さんに訊ねた。
「ぼくはなにをしたらいいんですか? 身の潔白を証明できなければ容疑者として送検でもされるってことはないですよね?」
「さすがにそんなことはないが、わたしには風紀委員統轄の権限でそれに近いことができるということになってるよ。ただ──」
 デスクの上でゆっくり手を組みかえて、足藤さんはことばをついだ。
「きみももう感づいているとは思うが、われわれ風紀委員はきさまたちを疑っていない。生徒会もそうだ」
 それはまた信頼されたことだ。
 たぶん、こちらにはあずかり知らぬ証拠があってのことだろう。極秘の監視システムぐらい余裕でありそうだしな。
「むしろ協力してもらいたいんだ。犯人の目的がなんであれ、これは学苑の存続を問われる──そう、戦いだ。それも高度な情報戦になる。こちらの手持ちはあまりにも少ない……力を貸してほしいのだ、ヶ原くん」
 風紀委員は自己陶酔癖のふきだまりか?
 ぼくも所属していいんじゃないか?
「なにか世の中なめたこと考えてませんか」
 未さん本気で鋭いなあ。
「いやべつに。それよりどうやって協力すればいいのかな」
「いいかね、あなたは再来とコンタクトしている数少ない人物だ。じぶんがそれなりに重要視されているのを理解しておきたまえ」
 ……また再来か。
「再来はこの学苑のヌシだ。学苑の脅威となるあらゆる要素を排除するわれわれ風紀に協力してくれた例は過去にもいくつかあってね、たぶん今回もなにか力になってくれるはずなんだ。コンタクトさえとれれば、だが。というわけで、そちらの遭遇経験に一縷の望みを託すというわけだ」
 すくなくとも、ガラスを突き破ったりしてもおつりがくるような活躍をしてるらしい。
 とはいってもなあ……ぼくもべつに居場所知ってるわけじゃないし。
 だがこの場でそれをバカ正直に口にする気はない。
「まあ、よくわかりました、足藤さん」
 もっともらしくうなずいてみせる。
「真犯人の手がかりぐらいは、つかんでみせますよ」

「あなたの調子のよさにはすこし呆れています」
 誤算だった。
 まさかお目付け役として未さんをつけてくるとは。信頼しているが聞いてあきれる。
 彼女はぼくのむくれ顔に気づき、
「なにか不服ですか?」
「そりゃ不服だよ。たまたま授業を抜けてたのを盾にとって、ていのいい脅迫じゃないかこんなもの」
「相手がじぶんを潔白だと思っているということが確信できているときは、それはそれで使いようがあるものですから」
「未さんめちゃめちゃシビアなことを言うなあ」
「シビアとは現実的とかきまじめという意味ではないですよ。わたしはいたずらに過酷シビアなだけの人間でいるつもりはありません」
 ごもっとも。
 未さん、なにげに自己把握がしっかりしているようだ。
「こうみえてつくすタイプなんです」
 たとえそれが事実だとしてもじぶんで言うべきではないと思った。
 それにしても織田くんはどこへ行ったのだろう。めんどくさくなって立花さん探しに旅立っただけだろうか。
 それとも……と一瞬思ったが、まさかと打ち消す。
 かれにはアリバイがちゃんとある。ぼくといっしょに立花さんを探して廊下を練り歩いていたのだから。

 ともあれ、覚悟はしておかなければならないだろう。
 なにが起こっても、この学苑では異常事態とはいえないのだから。
 ヒューズがはじけるぎりぎりの、あやういところで維持されているこの世界は、いつ崩壊してもおかしくないのだから。
 そう思った瞬間、るるる、とぼくの喉の奥も鳴る。



 きょうの祭りは高等部で開かれているようだった。まだ足を踏み入れたことのない方角から、にぎやかな音が遠く聴こえてくる。
 って、そうだ。
「考えたら、毎日お祭りなんだから外部の人間なんていくらでも入ってくるんじゃ?」
「いままで考えなかったのですか」
 未さんはため息をつき、
「入苑する部外者は、校門で無人チェッカーによって暫定IDを登録され、苑内での位置情報を記録されます」
 知らなかった。
「じゃあ初日のときの、まだ部外者だったぼくも?」
「ええ、しかし生徒にはさすがにそこまで厳しくはありません。ただ生徒手帳には所持義務があって、校舎単位での入出記録も残りますから……もちろん義務を守っている生徒はそう多くはないですが、あるていどの目星はつきます」
 未さんは淡々と口にしているが、ぼくはちょっと彼女を見直す。言いぐさに『もっと厳しく管理すれば面倒がないのに』というニュアンスがないからだ。
 すでに確実な方法で管理されているからかもしれないけど。
「スージーも、なにも犯人と思ってないやつまで連れてくことねーじゃん」
「ぼくもそれは思ったな」
「だからさいしょに瓜田に靴を、と言ったじゃないですか。それにヶ原が使えると思ったのも事実です。そして織田、スージーって呼ばないでください」
「スージー?」
 織田は頭の後ろで楽天的に手を組みながら、
未枢路いまだすうじだからスージーなんだよ。華南がつけたのが定着してな」
「おんがくか……」
 あのニックネーム魔め。
「定着したのは彼女本人とあなただけじゃないですか」
「ぼくにも定着していいのかな」
「いいえ。ところで」
 未さんがやっとつっこんでくれる。
「織田、たまには足藤さんに会ってください」
「やだよ。あいつ話長えんだもん。景色は変わらねーしいいことないじゃん」
 ただの常習だったらしい。
「てなわけで、いつの間にか戻ってきたぜ、ヶ原よ」
「ああ、うん、おかえり」
 ボケ返したつもりだったのに、まるでつっこまなかったぼくがうっかりものみたいな流れになってしまった。ばつが悪くなって、ぼくは訊ねた。
「立花さんは?」
「おう、高等部のほうの祭り行ってみたけどあっちにもいねかった」
 フットワークいいな、こいつ。
「でさ、おれ思ったんだけど、せっかくヶ原がいるんだから、キカちゃんはおいといて再来さんひっぱってくるのっていい手じゃねえ?」
「むりだって」
 即答したぼくに、未さんの
「やっぱり安うけあいだったんですか……」
 という声が鋭く刺さってきた。しまった。
「なんだよヶ原、もしかしておれに一肌脱ごうって言ったのも適当かよ」
「そうだけど、結果的に助けになるようにはしようと思ってるよ」
「どういうふうに」
「たとえば爆弾騒ぎの犯人の手がかりぐらいはつかんできたいと思ってるし、立花さんがつかまらないにしても、キカちゃん本人が見つかるところまではつきあおうかと思ってた。あとの交渉まではもちろん知ったことじゃないけど」
「おまえ親切なのか冷血なのかはっきりしろよ!」
「人間に単純さを求めるな」
 ぼくは蔑みの目で織田くんを一瞥した。
 ひざの裏を蹴りつけられた。なんて乱暴なやつだ。
「じゃれあってないで、早く行動を。設置犯そのものをおさえられなくとも、最悪なにかしらの発見ぐらいはなければ……こんどは本物の爆弾かもしれないんです」
 未さんはふたたび、あの思いつめたような声で言った。
「そうなったら、遅──」
 彼女がこちらへ振り向いて、あっけにとられ、
 ぼくの顔になにがついてるのかと一瞬思っているうちに、
 後頭部をなにものかに殴られ、記憶がとぎれる。



 からん、という規則正しい間隔で響いてくる涼やかな音と、ずきりとした痛みで目を醒ました。
 なんかぼく、気絶してばっかりだな……と思いつつ後頭部をさする。指を確認。よし、出血はない。
 つぎに身を起こして周囲を見まわすと、そこは和室だった。
 からん、は庭にあるししおどしの音だったようだ。
 というか、畳の感触がなかなか心地いい。思わず手で畳の目をなぞるように触って遊んでしまう。ほかにすべきことがあるのにこういう意味のない行動を人間がとるばあい、理由はひとつしかない。
 現実を受け容れがたいのだ。今後の行動を考えるのを先送りにしている。
 ぼくはいったい、なぜここに連れてこられたのか?
 拘束はないし、身体に変調もない。ただ、違和感。
「……未さん? 織田くん?」
 不安になり、ゆっくり立ちあがる。
「未さん! 織田くん! いないのか!?」
 よくない兆候だ、とじぶんでじぶんを疑いはじめる。
 声にパニックの色がある。この状況に対してぼくの本能が黄信号を発している。いますぐ、ここから、脱出しないと、
「無事おめざめてなによりかによりだが──」
 ぎくり、と全身がこわばる。
「すこしく静やかにしてくれたまわれ」
 ぼくの右のほうからかけられたその声の主は、その男は、あきらかに日本人ではなかった。
 キカも日本人離れした容姿だが、この男は見るからに『ガイジン』という形容がふさわしい白人で、金髪碧眼、ごていねいにすこし割れかけた顎まで具えている。
「……完璧だ」
 思わず、唾をぐびりと呑みこんだ。
 この完璧なガイジンっぷりで、さらに完璧なのが服装だった。
 忍者ルックだ。
 ところどころが少々だぶついた、全体にはひきしまったシルエットの装束。胸元や手首からのぞくインナーは鎖帷子。足袋に草鞋を履きこなしている。畳の上なんだから脱げよ。
「すまなんだった。拙者を赦さらせてくれ」
「は……?」
 なにを言っているのかよくわからないが、ひとつだけわかった。
 ちがう。この男ではない。
 たしかに危険な男だ。複数の意味において。だが、このアメリカン忍者は、いやアメリカ人ではないかもしれないが謎の白人忍者は、さっき本能的に感じた恐怖の源ではない。
 脅威は、
「かれは事故できみを気絶させてしまったことを謝っているんだよ、ヶ原くん」
「ヨシノブ!!」
 この狭い和室でふたりの人間の存在に不自然なまでに気づくのが遅れた。というかぼくに声をかけるまでいなかったようにしか思えない。なんの演出なんだ、これは。
 ヨシノブは和服で座布団の上に正座し、茶をたてていた。風流ということば以外に形容が思いつかない光景だが、さっきからの恐怖感も消えない。
「……天井から落下したかれの石頭が、きみにしたたか激突し、気絶させてしまったらしくてね。未さんと織田くんから事情を聞いて、わたしがここで介抱した。保健委員であると同時に、茶道部でもあってね。保健室はちょっと混雑していたものだから」
 なるほど、ふたりは先に目的の相手を探しに行ったのか。
「とりあえず、飲みたまえ。気持ちがおちつく」
 ヨシノブこと迂遠藤義述は、点てたお茶をこちらへ差し出した。
「う」
 さっきからの本能のアラームが頂点に達する。
 ……これか! 遠ざけなければいけない脅威!
 怪訝そうにヨシノブがこちらのこわばった表情を見ると、ややあって納得したように、
「ああなるほど。作法がわからないのだね」
 意味をとりちがえたヨシノブが忍者のほうにウインクすると、かれはこちらへやってきた。
「かれが手本を見せてくれるよ。日本文化に造詣が深い男でね」
 なにせ天井にはりつくほどの造詣だ。
 ガイジン忍者は一礼すると、スッスッと湯のみ茶碗を回して正面をはずし、しばし愛でるように色や泡立ちを楽しんだのち、ひとくち含んだあと──
 一気に飲み干すことはできず、発狂した。
 かれのあげた奇声の意味はさっぱりわからなかった。ひとつだけはっきりしていたのは、このまま和室にいると危険だということだ。
 ひとまずぼくとヨシノブは和室を脱出する。
 ガイジン忍者の声が遠ざかるのを聴きながら、先にヨシノブから口をきいてきた。
「忍者刀を装備していなかったのが救いだね。法治国家ばんざいだ」
「なに飲ませたんだいったい!」
「保健委員であると同時に茶道部でもあり、なおかつ薬学研でもあってね。裏庭に密生している植物から、新しい薬効を発見したので試してみた。お茶として点てなければ成分的にはただの無害な草なんだが……ふしぎなものだ」
 法治国家よ、こいつにばんざいと言われていていいのか。
「さきほどのように、ひとの心はもろい……だがこの事件を教訓のひとつとして、ぼくのお茶はますます改良されていくだろう」
「それまで何人犠牲にするつもりなんだ!」
「すぐれた薬はすぐれた毒ときわめて近い。きっとそう遠くない将来だよ……そのためには、いまはたとえ不名誉な呼び名をつけられていても、いずれ全校に迂遠藤式茶の湯をわかってもらえるはず。とりあえずそれまでは物証を残さないように立ち回らないとね」
「……」
 つっこみたいことはいろいろあるが、先に好奇心の充足から。
「不名誉な呼び名って?」
「あんまり、言いたくないんだが」
 ヨシノブは苦々しげに視線をそらし、吐き捨てるように告白した。
「……鏖茶道ジェノサドウだ」
 座布団1枚。



「ざぶとん? ざぶとんがどうしたのかな?」
「いや、べつに」
 ぼくとヨシノブが逃げているこの建物をぼくは知らない。というかこの学校は見た目以上に広大すぎる。和室を出てからもバラエティに富んだ内装の部屋をいくつかくぐりぬけている。長屋風、西洋教会風、高床式住居風、モスク風、宇宙船の艦橋風。
 しかし廊下よりは秩序がある。ぼくらが部屋に入れば、ちゃんと驚く。廊下には、これらの内装をつくりあげるために用意されたあまりものがゴロゴロと散乱していて、とてもじゃないけど廊下として機能してるとはいえないだろう。
 その秩序を闖入して破壊してしまってごめんなさい、と走りながら心の中で手を合わせる。
「どうした、キョロキョロして。部室棟がそんなに珍しいかね?」
「珍しくないわけがないだろ」
 というかこれ、部室棟なのか。どこが?
「大儀くん、なぜ内部を通るんだ? 廊下はたしかに障害物も多く、曲がりくねっているが」
「ショートカットできそうなところに片っ端から入ってるだけだよ。たぶんちゃんと短縮されてる気がする!」
「……華南くんの言っていたとおりだな、きみは」
 旧知のいとこ曰く、ぼくは『いつでも一心不乱にまっしぐらに道に迷っていく』そうだ。そんなことないと思うんだがなあ。
「女子温泉同好会の部室とかはないの?」
「健全な中学生男子としてとても遺憾だが、過去迷いこめた報告はない」
 同好会じたいはあるんだ……
「ともかくこの学校はあらゆる部活動が祭りの準備機関も兼ねていてね、試行錯誤のすえに気がついたらこんなことになっていたのだ」
 そんな学校で保健委員やってるという点では、ヨシノブはえらい。
 そりゃちょっと気がふれてもしかたないだろう。
「まったく、この学校でも数少ない正常人であるわたしとしては慙愧に耐えないが……まあ、いずれきれいになるはずなんだ。わたしのつくる新たな秩序によってね」
 ちょっとやそっと気がふれてもしかたないだろう。
「どうした、じぶんにこの世の理不尽を認めさせるべく言い聞かせるような顔をして」
「いや……すこし考えごとをね。そろそろ忍者も追ってこないんじゃない? ちょっとペースを落とそう」
 ぼくらは疾走をひとまず早足に変えて、しかし休まずに和室から遠ざかるつもりでいた。これだけ目立ってしまっては、もはや目撃者がいないうちにというわけにはいかないだろうけど。
「そういえば、ヨシノブくんはキカちゃんか立花さんか再来さん本人を見かけてない?」
「残念だが、その3人とはきょうは会っていないな。いったいどこで遭遇できるやら、こちらとしても知りたいぐらいではあるが」
「丈夫そうだから新しい調合を試せるんじゃないかって?」
「よくわかったね」
 こいつといっしょに行動しているのがいちばん危険なのじゃないだろうか、と危機感をおぼえつつ、ぼくらは部室棟を脱出した。なるほど、高等部校舎は目と鼻の先だ。出店がちらほら見えている。おなかが減ってきたので、アメリカンドッグを買った。
「あ、そうだ」
 忘れてた。便利な相手がいるじゃないか。
「なにかな?」
「探しものを見つけるには、ちょうどいいところがあるのを思いだしたよ」
 あれは目立つから、すぐ見つかるはず──
 あった。
 占いおねえさんの、黒い天幕だ。



 とりあえず外で待っていてほしい、とヨシノブくんに告げる。
「なぜ!? ぼくは信頼できないというのか!?」
「そういうわけじゃないけどね」
 あんなできごとの直後に、事件の張本人を信頼しようというのがムリがあるが、それは言わずにおく。
「場所が場所だ。ひとりずつ入って話を聞いたほうが、いろいろ聴きだせそうじゃない?」
「それもそうかもしれないな。では、待っているあいだこのあたりで情報収集をしておくよ」
 よろしくおねがいします。

「へっくしっ」
 天幕に入った瞬間くしゃみで歓迎された。
「……おだいじに。日が悪かったですか?」
「いえ、ずびっ、占いは行住坐臥を選びませんぐっこほこほこほ。どうぞそこにずっずーおかけになって」
 言い終えるまえに鼻水が出そうになったらしい。彼女はあわててティッシュを取り、ズバーッと壮絶な音をたてて鼻をかんだ。
 前回会ったときはおなかをすかせていたし、どうもまともな状態のときに会えない。相性が悪いのだろうか?
「ご用向きはわかってびばす。あなたのクラスメイトと風紀委員が聞きこみに奔走してらっしゃるとか……ぐじっ」
 あのふたり、まじめにやってるらしい。
 でも、
「聞きたいのはそんなことではないし、先輩が話したいのもそんなことじゃないでしょう?」
 彼女の動作が止まった。
 こちらを見つめたまま、なにかを言いたそうに口をなんどか動かし、
「っぇくしゅっ!」
 くしゃみが出なかっただけかよ。
 先輩は新たにティッシュを取り出し、
「びーん、はだじがはやぐでたすがびばず、ずびーっ」
 話が早くて助かります、と言いたいらしかった。
「それじゃあ、本題に入りましょう。こんなものはえいっ」
 水晶玉をぞんざいに脇にすっころがして、先輩は両手を組んだ。
 さあ、くるぞ。
「前回占いとして申しあげた件なんですが──
 あなたは再来としてクラスメイトから祀りあげられることを拒み、みずからを祀りあげることも拒みました。
 そういうひととあなたを見こんで、つぎのお話をいたします。

 ヶ原大儀くん。

 いま、あなたが出場しようとしている今年度竜神再来決定コンテスト。
 なんとしても優勝してください」
「……は?」
 思わず、すっとんきょうな声を出してしまった。
「あ、あの、先輩」
「なにか?」
「なんでですか?」
 先輩はふしぎそうにこちらを見ている。
「決まっています。あなたが信じてないからです。信じていない人間は冷静にものごとを動かせます。この学苑を変えられるのは、あなたのようなひとです」
 買いかぶられてるんだなあ。
 それにしても、やっぱり思っていたとおりなのか?
 一瞬話があさってのほうに行ってしまったと思ったが、けっきょく読みは当たったのだろうか?
「先輩……ひとつだけ答えてください」
「いいですよ」
 彼女はどうやら、こちらがなにを訊くつもりなのか、わかっているようだ。
 しかたない。
 ぼくは深呼吸して、ひと息に言った。

「犯人なんですか?」



 どれくらいの時間が経過しただろうか。
 彼女はゆっくりティッシュをとり、もういちど鼻をかむと、こちらを見つめて答えた。
「犯人に「犯人ですか?」と訊いて「はいそうです」と答えられたら、それはたぶん犯人じゃないのでは?」
 ぼくは首を振った。
「犯人だと認めさせたいわけでも、否定させたいわけでも、まして疑っているわけでも信じているわけでもないんです。ただ、答えてほしかっただけです」
 どんな回答でも、それが真実でなくともかまわなかったほどだ。
「先輩の姿勢が知りたかっただけです。それだけです」
「それだけで、相手を犯人かもしれないと疑っているなんてことが表明できるのですか」
 先輩はカゼをひいていることすら忘れて薄く笑い、うれしそうに言った。
「怖い、かたですね」
 相手は選びますけどね、とぼくは肩をすくめた。
 たとえば、この先輩と似て非なる、風紀委員のあの子。
 ああいうタイプに対して、ぼくが言うべきことはない。めんどうなことにしかならない。
「ぼくが先輩に気安いのは、わかってるでしょう、なにを言ってもむだな相手のような気がするからなんです」
 いわば、同属のにおい。
「光栄です」
 そして、話も早い。
「それを確認するためにも、さっきの質問をさせてもらったんです。いちおう、非礼はおわびしますよ、先輩」
「山名っくしゅ、というのがわたしの姓ですね、ず」
「ヤマナックシュ先輩」
「びーん。山名かちかです。できればわたしとしては、カチ先輩って呼んでもらいたいですか?」
「こっちに訊くところじゃないと思う」
 でも意外にまともな名前で安心した。フルネームで名乗ると山中チカと思われそうだけど。
「これからも、こほっ、ほしい情報があれば来てください。微力ながら力をお貸しできるときもあるかもしれません」
「今回は?」
「スカでした」
 ちょっと肩を落としてぼくはきびすを返す。そのまま天幕を出ようとすると、出しなに山名先輩はつぶやいた。
「あ、そうそう……」
 一拍だけ置いて、ぼくが足を止める瞬間の呼吸に滑りこむように、

「犯人はかなりおつかれのようですよ」

 ……逆コロンボでも気取ってるんだろうか、このひとは?
「それはまた、微力ですね」
「ええ、かげんが難しくて──」
 かちか先輩は言いかけて、あはっ、とこちらに笑いかけると、そのまま数秒なにかを言いたそうに口を開き、かと思えば言いよどむように閉じかけ、それをひとしきりくりかえしたあと、
「っっぶしっ!!」
 ゴッド・ブレス・ユー。



 さて、現在おつかれだという犯人とやらはどこにいるのか。
 再集結したこちらの戦力をまとめてみよう。
「けっきょく、なにもわからなかったのかい? やれやれ。ちなみにぼくもだが」
 迂遠藤義述。丁組保健委員で茶道部で薬学研究会。ぼくの介抱を口実に授業を脱出。
「こちらも、なしのつぶてでした」
 未枢路。丙組風紀委員。風紀委員会は校舎に爆弾ダミーを設置した犯人を捕らえたいらしい。
「なしのつぶて……それいただき!」
 織田テツ。丁組歌唱祭実行委員……? 立花さんを探しているついでに未さんにつきあって犯人探し。いちおうぼくとおなじく、風紀に弱みを握られている立場のはずだけど。
 なにやら手に書きこんでいる織田くんの妙に鬼気迫る姿も気になったが、それ以上に、
「るーおるるるるるーうーるるー」
 雛蛇キカ。丁組不定期生徒。目的不明。というより行動の原理原則からして不明。
 その学苑きっての野生児が、視界の隅で涙目になったまま頭を抱えてしゃがみこんでいるという光景が気にかかってしかたない。
「なんかあったの?」
「いや、それがさ……会ったときからあの状態で……べつにケガとかもしてないけど、なにがあったのか訊こうにもことばがわかんねーからそのまま連れてきた」
 織田くんはこともなげに言ったが、おとなしくついてくるだけでもすごいことだ。
 もしかして今回の事件と関係が? 重大なヒントが隠されているのか? などと思ったが──まあ、本人と会話ができない以上、気にするだけややこしくなるからおいとこう。
 考える材料が不足している以上、まずは行動だ。

「……」

「……なにをしてるんですか、ヶ原くん? もしかして今後の指針とかまったく決まってませんか?」
「え、ぼく?」
 なぜ、ぼくがそんなことを決めなければいけないのか。
「リーダーは未さんじゃないの?」
「わたしはあなたの監視役です」
「ええと、だって、ぼくは今回の事件がどれくらい深刻なのかもぴんときてない上に、そのニセ爆弾がどこに置かれてたかとか、ほかのだれがどこを捜査ずみとか、なにも知らないわけなんだけど」
「なにも聞かないんだから知るわけがないでしょう」
 未さんはピリピリした口調で、
「わからないことはどんどん質問してくれてけっこうです」
「いやその、そこまでしてぼくにリーダーシップをとらせたがってるのがよくわかんないんだけど」
「そういえば……」
 未さんは腕を組んで、
「ヶ原には学苑のヌシである『再来』さんとコンタクトをとれるかもしれないというはかない望みがあるだけです」
「でしょ」
「かといって、わたしは監視を命じられた立場でしかないのです。授業に参加せず委員会活動に従事している以上、職分は果たさなくては。積極的に捜査する権限はありません」
 不本意そうに不服そうに残念そうに、それでもあくまで忠実。
 杓子定規もここまでくると尊敬に値するかもしれない。
 すくなくとも、この子はぼくよりはずっと上等な人間だ。
 カンのいい未さんは、まるでバカにでもされたかのように、キッとこちらを睨む。ほめたのに。
「ヶ原が主体的に行動するのが筋だと思いますが?」
 めんどくさいなあ。
 しかし、気がつけば、織田くんもヨシノブもぼくの出かたを待っているようだった。いつの間にこんな構図になっていたのだろう?

 やれやれ、めんどくさいなあ。

 ぼくは片足をジャッとすべらせ、一同を見まわす。言うべきことは、すでに決まっている。
「わかった。じゃあ行こうか。部室棟に戻ろう」

 やるべきことなど、いやになるほどわかりきっている。



 和室にはすでにだれも残っていなかった。あたりまえだ。
「ヨシノブ。あの忍者のひとのことだけど」
「忍者のひと? OCがどうかしたのかい?」
 OCっていうのか。
「そう、オーレン・キャンベル・グラマン。高等部の1年生で、所属はぼくとおなじ茶道部だ。学苑は海外の戦力をとりこむのに熱心でね。キカ以外にも留学生は多いんだよ」
 茶道部なのに……。
 ぼくはこめかみに軽い痛みをおぼえ、すこしもみほぐしてから、言った。
「で、そのOCさんはそろそろ正気に戻ってると思う?」
 ヨシノブは、どうだろう、と首をかしげる。
「あのお茶は本来、強壮剤だからね。死人すらショックで生き返る効果があるはず。もし正常な結果が得られているなら、いまごろかれは元気いっぱいに学苑じゅうをとびまわってる」
「そんなものぼくに飲ませる気だったのか」
「いやあ、はっはっは、きみはすこし元気が足りない気がして」
 まあ、たしかに……
 現にいま、ぼくにはやる気と呼べるものなどない。
 この先に踏みこむ気力なんか、あまり持ちあわせていない。
 だから、あとは踏みだすしかない、というところまでじぶんを追いつめるべく、ぼくは決意の深呼吸とともに、
「まあ、あのひとがこの場にいる必要なんかない。ぼくがいま知りたいのは──
 かれと口裏を合わせた理由。当人から、その理由を教えてもらいたい」
 ぴき。
 その人物が、軽く肩を硬直させて、そしてぼくを強くにらみつける。敵意の目だ。
「OCさんは天井から落ちたと言っていた。でも、ぼくはたしかにあのとき、後頭部にショックをうけて気絶した。頭頂部じゃなく、後頭部に。いまも痛みが残ってる」
 たぶんあのお茶を飲んでいたら、その感覚すらふっとんでいたろうが。
 ぼくはゆっくりと、指をさしあげて、問題の人物を指し示す。
「そしてその直前に、ぼくを見てあっけにとられていた人物がいる。正確には、ぼくの背後にあったものを見て、だけど。

 未、枢路さん。

 犯人はおまえだ! とかいうつもりはべつにない。そんな根拠はとくになにもない。
 ただ、きみがあのときなにを見て、なぜそれを隠そうとしてるのか、教えてほしい。
 もちろん、織田くんがそれに話を合わせた理由も、だ」
 一同の視線が、彼女に集中した。
 織田くんの視線もだ。
 かれはため息をつくと、
「……スージー、だからおれは言ったんだぜ」
「だまっててください織田。とくにスージーって呼ばないでください」
 くちびるを白くなるほどかみしめながら、
「ヶ原。あなたという、ひとは」
 未さんはこちらを敵愾心に満ちた目でにらみつづける。だが、そろそろ限界だ。この綱渡りにも似た緊張状態を打開したのは、

「るおおおおおおーっ!」

 さきほどまで頭をかかえていた野生児、1名。
 耳をつんざき、大気を震わさんばかりのおたけびに、
「ウォハウワッ!」
 ファンキーな悲鳴をあげて天井から──
 弧を描いて落ちてきた忍者、1名。
 腹をワイヤーで結び、そのワイヤーの先は投げるかなにかしたのだろう、ちょっと遠い位置にあった柱にひっかけられていた。そのワイヤーをたぐり、天井のわずかな手がかりに指をひっかけて、天井を移動する方法をとっていたらしい。
 なるほど。
 これなら後頭部に激突するのもぶはっ。

 こんどは真正面から体当たりされるかたちで、ぼくはダメージをこうむることになった。
 さて。
 じゃあ、さっきの織田くんの発言はどういうことなのかな。



「おのれ、これはなにかの陰謀だ。拙者はただ天井隠れの練習中だったのだ。なにものかしらに企まかされたことなのだ」
 ふんじばられたガイジン忍者がなにかわめいている。しかしあいにくと、この学校に3日いる人間は、どんな騒音であろうと、不必要な音声を雑音としてシャットアウトできるようになる。
 そんなスキルほしくなかった……!
 ぼくはみぞおちに残った鈍痛をこらえながら、あらためて話を聞くことにした。
 織田くんはあいかわらず手に書きつけをしつつ、
「だからさ、起きるまで待とうぜっつったのに、スージーが勝手に動きたがったからややこしいことになったんだよ。あのイカレたシチュエーションちゃんと説明できるのは、その場にいたやつだけだし……トムのやつは日本語あやしいみたいだしな」
「拙者トムではない」
「うるせえジェフ、話がややこしくなるからちょっと黙ってろ」
 おまえもな。
「けっきょく、未さんはなんであんなにすごい顔してたの?」
「そんなもの。あらぬ疑いをかけられれば、腹も立ちます」
「『花畑に靴を投げこむな』って言ったのはきみだよ?」
「花畑じゃありません、瓜田です」
「え! それはつまり……家電製品の不法投棄がダメってこと?」
「わざと言ってるでしょう」
「まあね」
 どうやらちょっと時期尚早だったようだ。もうすこしなにか必要なものがある。
「それにしても、ニセ爆弾の犯人がただの愉快犯だとして、特定する方法なんてもう残ってないんじゃないのかな?」
 ヨシノブが真顔でもっともなことを言った。
 だが、もっともなことが常にまっとうに通用するなら、世界はもはや、恒久平和が実現しているとすらいえるのではないだろうか。
 そもそもキカの遠吠えの理由すらわからないのだ。さっきまでよりおちついていて、退屈そうにあくびなぞしている。
「るくぁ〜っ」
 そこにまで『る』付けなくても。
 と思った瞬間、
「るぴっ!!」
 全身の毛を総立ちさせたような動作で、キカがふるえあがった。
 そしてまた遠吠えが始まったと思ったら、唐突に止まる。かと思えばまた遠吠え、しかし……この動作にはなにやら法則性を感じる。
 なにか、さっきから彼女の視線は、ひとつのものを追っているような……
「ヨシノブ」
「なにかな」
「この学校のわりと正確な地図を持ってたら、出してくれないかな」
「承知」

 どうやら大当たりのようだった。
 なるほど、ちょうどこの部室棟を中心としたときに、真円に近い形状でつくられた舗装道路の存在は無視できない。そこは棟からはちょうど半径100から120メータぐらいの範囲を押さえており、彼女の直観は、レーダーとなって道を歩くなにかを見ている。
 学苑外周──
 ぼくは席を立った。和室のいごこちのよさもかなりのものだが、そうも言っていられまい、行ってみるしかなさそうだ。ここで問題がひとつ。
「グラマンさん」
「なにかね? できれうるなら『グラマ天狗』と呼んでもらいたいが」

 だれが呼んでたまるものか。

「……忍者の必要な仕事です。協力してくれるなら縄をほどきますよ」
「心得たーっ!」
「早!?」
 やはり、その気にさえさせれば役に立ちそうだ。
 ぼくはかれの束縛を解いた。さあ、出発だ。



 学苑の周囲を囲むちょっといびつな道路は、裏山にさしかかったところでいったん途切れ、そして裏山が終わるとまた再開する。
 地図を信じ、キカの表情を方角と距離のあてにするならば、相手の移動方向は、北西からの時計回り。ただの学校のまわりをうろついている不審者かなにかなら、キカが警戒する必要はない。
 ああいう反応を彼女がする相手がいるとしたら、考えられるのはただひとり。
 再来。
「るるるるるるぐぐぐぐ」
 キカはいま、両肩をおさえてガタガタと震えている。いまはもう逃げだすことすら思いつかないようだ。
 それにしても校舎を出るとなるとめんどうだ、と思った瞬間ぼくは気づく。
 相手は学校の外にいる。
 つまりは、祭りの渦中にいない。
「それが?」
 説明しても、未さんは冷淡にそう返答してきただけだ。
「それがって……再来さんがいないときに祭りを中断すれば、だいじょうぶなのかな?」
「まさか。伝説では、竜神は祭りのにぎやかさに誘われてここにやってきたんです。
 それはつまり、祭りを中断すればよりつきもしなくなるということです。
 そうなってしまったら、やはりこの地域にはなにかが起こってしまう……」
 未さんが、なぜここまで祭りの続行に固執するのか。その理由は知らない。ただ、まちがいなく過剰な執着があるということだけはわかっている。
 なにか、それをひとつの武器にできないだろうか……
 ぼくはさっきから、そんなことばかり考えている。だれをどうすれば戦力になるか、有効な利用法はなにか。
 われながら、業が深い。
 だが、そんな考えごとのおかげで移動というかったるい時間帯を突破できたよう。
 予想位置まで大当たりだった。そこに立っていたのは、意外にも立花さんだったりはせず──
 あくまで、そこにいたのは、
 キカと似て非なる異様な存在感。淡褐色の肌。美しいブロンド。森林の奥に隠れ住むという、不定期生徒の親玉。竜神再来コンテスト、真のぶっちぎり優勝候補。

「……訊きたいことがあるんだけど」

 彼女はこくりとうなずいた。よかった、こいつには日本語が通用する。

「あんたの名前は?」
 呼び名が存在しないのはしっくりこない。これは異常な状況下でもなんでもなく、きわめて妥当な判断からの、しごく当然な要求だ。
 だからそんな『ボケかましてるばあいじゃないだろう』みたいな顔してないで、答えてほしい、とぼくは願う。
「……ふー……」
 ため息ひとつで空間がねじまがるかのような、奇妙なオーラが場を圧する。
 キカはぼくの背後に隠れてしまった。
「わかった。おしえる」
「ぜひとも」

 そして、彼女は、その名を名乗った。



 リンシャ。
 そう名乗った少女は、おちつけ、こんらんするな、と、キカよりはるかに剣呑に尖った犬歯をぎらつかせて、笑いかけた。

 リンシャ・ヘレンズ・御壌みつち
 日系二世。
 なにかの予感に導かれて日本へと渡り、いろいろあって学苑にたどりつく。身許すらはっきりしないまま特例として学籍を得たものの、授業で学ぶことがべつにないので裏山で悠々自適に生活しているらしい。
 漢字の姓があるのは、父はアメリカ人だが母は日本人だからだ。だから日本語は中途半端にしか知らなくて、母語はスペイン語だという。日米ハーフでなぜスペイン語? と思ったら、それはメキシコ生まれだからということらしい。なるほどアメリカはアメリカでもラテン・アメリカってわけだねと納得すると、ちがうと言下に否定される。父親は合衆国出身だ。よくわからないけど、とにかくスペインじゃなくてメキシコから来たのか、と訊けば、いや、スペインから来た、と答えてきた。生まれてまもなくスペインに移り住んだのらしい。なんだ、じゃあメキシコ人ってわけじゃないのか、いやメキシコ人、国籍はメキシコのままだから。
 腹が立ってきた。
 どの口で混乱するなとほざくのか、こいつは。
「もうどうでもいいよどこの国の人間だとか」
「よくない、メキシコとブラジルいっしょにするな」
「いっしょにされるの?」
「うん……される。ときどき」
「サッカー強いほうがブラジルだよね」
「メキシコだってつよいわい」
 ほんとかよ。
「わかったごめんわかったから。で、それ以前にけっきょくなにものなの、あなたは」
「だから、りゅうってば」
 と彼女はもう一度答えた。
「手羽?」
「はい」
 うなずくな。
 どうやらこいつ、ちゃんと人の話聞いてない。
 リンシャは顔をほとんどくっつくほど近寄せて、ぼくの右手を彼女自身の頬に、じぶんの右手をぼくの頬に当てる。そうすれば心が伝わるとでも言わんばかりに。閉じた口で笑っていると、凶悪な犬歯の存在はみじんも感じさせない。
 鏡を見ているように、同じ高さの目線がそこにある。
 鏡を見ているような、澄んだ群青の瞳。
 その中に、ぼくの姿がある。
 それで、気づいた。
 この子、ぼくに似ているんだ。
 もちろん、顔かたちやはだや目の色はちがう。性格も行動規範も異なるだろう。重なる要素は背の高さを除いて、ひとつもないと思う。
 それでも確信する。こいつはぼくに似ているんだ。
「竜……?」
「そして、おまえ、のろいのこ」
「──呪い」
「そう、のろい」

 はっとして、ぼくはとびのいた。

 これ以上、彼女のペースにまかれるのはまずい。それより、いまは、
「そんなことどうでもいいっ。今回ぼくらが調べてる事件について、あんたはなにか知ってるのか」
「知っている」
「じゃあ、悪いけど、教えてもらえないかな」
「わかった。みかえりはいらない」
 意味ありげにキカのほうを一瞥し、びくりと震える彼女に意地悪そうに笑いかけると、リンシャは言った。
「はんにんの、やりたかったことだけわかれば、あとはかんたん」
 傲。
 突風が一同を襲い、リンシャの青い瞳が、金糸の前髪にけぶる。

「そしてあいつは──ただ、ためしただけ」

 ただ、ためしただけ。
 だからおれは言ったんだぜ。
 犯人はかなりおつかれのようですよ。
 物証を残さないように立ち回らないとね。
 赦さらせてくれ。
 無事、毎日なにごとかあるためにです。

 人間に、単純さを、求めるな。

 求めるな……。

 そしてぼくは、理解した。



 ぼくは指揮者きどりのように指をすっと上げると、その指でこの場にいる人間のひとりを指し示す──まえに、ふと気になって、さっきまで会話していたリンシャのほうへ目をやった。
 いない。
 そんなことだろうと思った、と口の端を歪めると、ぼくはあらためてみんなのほうへ向きなおった。
 織田テツ。
 未枢路いまだすうじ
 O.C.オーレン・キャンベルグラマン。
 迂遠藤義述うぇんどうぎじゅつ
 雛蛇ひなたキカ。
 ぼくことヶ原大儀がはらたいぎは、とうとう、明確にひとりを指し示した。

 べつに、このなかに犯人がいる理由はない。
 ぼくが犯人をつきとめる必要もない。
 物証だってないから、ただ訊ねるだけだ。答えてもらえる公算は強いが。
 理由も必要もないし、義理もない。もちろん人情も。
「じつは、はじめからそうだと思ってはいた」
「……」
 そいつは答えない。
「ほんとのところ、この学校に恫喝をかけてメリットがある人間なんていないんだ。あるとしても、爆弾をしかけるという行為が学校という場にそぐわないことはわかりきったことなんだ。むしろ可能性として高いとすべきは──
 なんの意味もなく、爆弾をしかける理由があった。
 爆弾をしかけるという行為じたいが目的だった。
 そう、生徒会も風紀も、学校が自力で解除できなかったことにとらわれすぎている。
 おまえにとって、解除できるかできないかも、それが爆弾であるかどうかすら、どうでもよかったんだ。
 ただ、目的は、試すこと。
 生徒会や風紀が秘密裡にはりめぐらせているセキュリティをかいくぐり、爆弾をしかけるだけの力を。自己の隠密能力を」
「……」
 そいつは、答えない。
「ちがうかな──O.C.グラマンさん」
「……」
 答えない。

「ぐらま天狗さん」

「ああ、拙者が爆弾しかけました」
 やっぱり呼んでほしかっただけらしい。
「……確保!!」
 未さんの号令一下、周囲に伏せていた何人かの──おそらく風紀委員傘下の部活かなにかなのだろう、高等部とおぼしき黒服の連中が飛びかかる。
 だが、グラマン氏は懐からなにかをとりだし、地面にたたきつけた。うわーけむりだまだーあんなものまでもっていたのかー。帰っていいですか。
 しかし効果は絶大だったようで、黒服たちはまったく予期していなかったらしく視界と呼吸を奪われた。なすすべもなく、煙が晴れるまでその場で右往左往しているだけだった。
 風紀……。
「ハハハハハーッ、おぬしらサムライに拙者を捕らえられるはずはない。元帥がスパイに勝てないように、ニンジャにサムライは勝てない!」
 どこからともなく声が響く。
 軍人将棋?
「きょうは天井にへばりつく練習でかなり疲れているゆえ、おさらばでござる!」
 ふはははははははという声が遠のいていった。
「くっ」
 未さんは、やるせない怒りとともに片足で地面を踏みつけた。
 これでいい。これで。
 この事件の犯人の罪をより深く裁くのは、部外者よりも、あくまで当人だ。

 爆弾をしかけた犯人、と未さんは言っていた。そして、いま、当のグラマン氏も。
 しかけた、と。
 つくった犯人ではなく。
 この事件で得をする人間はいない? いいや、いる。もちろんいる。
 現状のセキュリティを不安視している人間には、かっこうのデモンストレーションとなる。建前と本音の使い分けを心得ている人間。思ったままを強行する危険性を熟知している人間。
 惜しむらくは、杓子定規にすぎたところか。
 未枢路。
 彼女の心に彼女を裁かせればいい。

 あくまで、真犯人自身が胸にしまっておけば、それでいい。

 ぼくはそう信じていた。
 翌日、彼女がぼくを訪ねてくるまでは。



 撤回されたのはあくまで爆弾ダミー設置の容疑だけで、補習が免除されたわけではなかった。先生がつきっきりではないものの、レポートを書きおえるまで居残り。織田くんは逃げたが、どこかでとっつかまっていることだろう。
 そして、ぼくが織田くんの心配をするのをやめ、酸化還元反応の帳尻を指を折りながら合わせていたさなか。
「……どういうつもりですか」
 だれもいなくなった教室に、日本刀のような声が突き刺さってきた。
 未さんである。
「これを一刻も早く終わらせて、まっすぐ買い食いして帰るつもりだけど」
「ヶ原、それはまっすぐじゃありませんし、わたしの質問意図とズレているのがわかったうえでそういうことを言うっ……!!」
 律儀だなあ。
「ヶ原、いったいどこまでわかっていて、どう結論づけたうえで、いかなる理由であの解決を選んだんですか」
「そんなことを訊くためにわざわざ残って、ぼくだけになるのを待ってたの?」
「えっあ、はい、そう、ですとも」
 すげー目を泳がせて答える。
 ちがうんだ。どうでもいいけど。
「じゃあ答えるよ。ぼくの手が届く範囲で、まとめたかったから」
「──どういう、ことですか」
 たとえば、あの占い師。彼女になら、ぼくはズケズケとものを言ってやることができる。話が早いからだ。そして、なにを言ってもムダだとわかっている相手だから。
 未さんはちがう。
 ぼくの一挙手一投足は、未さんのような人間を揺り動かしてしまう。
 もちろん、そんなものは悪影響だ。
 あいつらは、あのままでいなくてはいけないのだ。
「答えなさい。あの落としどころが、ヶ原の手の届く範囲というのは、どういう意味です? なにが手に負えないと言いたいんです?」
 でも、それでも、どうしても踏みこんでくるというなら──
「ヶ原。なにを怖がっているんですか?」
 いいだろう。
 そっちがそのつもりなら、いいだろう。
「めんどくさい、と言ったろ」
 教室の静けさが、痛みを伴う沈黙に変化した。
 ぼくはじぶんでも驚くような冷ややかな声で、言いのけた。
「未さんがあそこまで手段を選ばず、ガイジンニンジャを囮に使ってまで、この学校の警備網を強化しようとしていた──なんてことを暴いたら、暴いたとしたら、必ず、ある話題にいきあたる。わかってるはずだ」
 未さんは、沈黙した。
「『なぜ、きみが、よりにもよってきみのような種類の人間が、そこまでしたのか』」
 未さんは、沈黙している。
「ヒントはごろごろ転がっている。
 ここまで転がっていたら、もう答えみたいなもんだ。
 この学校のシステムが維持されなければ困る、と言った未さん。
 偏執的なまでに、維持にこだわりつづける未さん。
 爆弾がほんとうに爆発する可能性については、アンバランスまでに軽視していた未さん。
 山名先輩いわく、『かなりおつかれの犯人』。

 未さん。
 なにを怖がってるか、と言ったね。
 答えよう。
 ぼくが怖がってるのは、解決までつきあわされることだ。
 きみの事情に立ち入るのが、きみの動機を理解するのが、きみの過去を斟酌するのが、きみのトラウマを勘定に入れて行動するのが、きみの根本問題を解消するのが、その成否を問わず結末まで道連れを余儀なくされるのが、怖いんだ。
 そこまでめんどう見きれるもんか。
 最低だろう。
 思いあがって、いるんだよ。
 事実として、ぼくはそういうことをしてきたから」
 未さんは、沈黙している。
 ぼくは未さんから、『あなたがわたしのなにを知っているというのか』という類の発言を聞かされたくない。
 ぼくのくだらない憶測のどれかが真実を突いているという最悪の事態に持ちこみたくない。
 たとえば『この学苑がたまたま祭りを休んだ日、彼女にとってかけがえのない人間が死んだ。彼女はその事実関係をどこかで知り、必死でここへ入学し、以後システムの維持に尽力しつづけ、そのことに疲れ果てている』。そんなどこにでもある、ありふれた絶望になんて、決して立ち入りたくない。
 見当ちがいであってほしい。
 確認するのが、とてつもなくめんどくさい……それはとても大儀なことで……怖い。
 未さんは、2、3歩あとずさりすると、
「……なにを言ってるのか、わからない」
 とうそをついた。
 だから、ぼくもたわごとで答える。
「アプローチのちがいの説明だよ。未さんの学校の護りかたをぼくは尊重する。だからぜんぶバカ正直に暴きたてることに価値を感じない。そこまでするのもめんどくさい。それだけ」
「そうですか」
 そうです。
「そう……ですか」
 そう……なんです。
 ぼくはもう、彼女の目どころか、彼女のいるほうすら見ていなかった。
 走り去る足音が遠ざかって消えるまで、そちらを見る気すらおこらなかった。
 ほんとは見たかったが、とても見られなかった?
 そうかもね。

 翌朝のHR後、休み時間。

「よう、ヶ原。おとついはなにやら、たいへんだったんだって?」
 すべてが終わって終わりきった瞬間、立花さんが授業に乱入してきた。
 心の底から言わせてくれ。
 この役立たずー!!
 このひとが捕まらなかったおかげで、いちばん恐れていた事態とはいかないまでも、ブービー賞ぐらいは獲ってしまった。いや八つ当たりだが。
 傷つけて、嫌われた……
 なんでわかっててやっちゃうんだろうな、ぼく?
「あああ……」
「おれを責めるような目で見たあとじぶんを責めるような手で頭を抱えるなよ」
「そうだぜヶ原、まるでおれがぬけがけしたみてーじゃねえか」
 織田がなにか意味のわからないことをほざき、
「そうか、やっぱりそうだったのか……ずいぶん急展開だったのだね」
 ヨシノブも意味のわからなさを上乗せした。
「そうだよたいぎー、あたしがいるじゃん」
 おんがくが冗談のときの声色で言い放ち、おおー、と教室がどよめいた。
「みんながなんの話をしているのか、教えてもらえる?」
 ぼくは顔をあげた。
 織田くんが、とてつもなくすまなそうにぼくの肩を叩く。
「スージーにふられたんだろ? 悪いな、言いそびれてて」
「は?」
「じつはおれたちつきあってるから」
「はあ」
「あいつは認めたときねーけどな」
 それはつきあってると言うのだろうか。
 そして、
「……織田、おまえフリーじゃないのか……そうか……なんか胸に穴が開いた気分だぜ……」
 なんとなく、危険なほうにまちがった感じでしょんぼりしている立花さん。
 でも気持ちはわかる気もする。この織田くんが……みんなの共有財産、愛すべきマスコット、だれのものでもなく、かれ自身のものですらなく、ただ丁組のおもちゃとして孤高でありつづける織田テツくんが……
「おまえまた失礼なこと考えてるだろう」
「そんなやくたいもないことより、未さんが言ってたの? ぼくが告白したからふった、とか」
「ばっかあのシャイなおれのスージーがそんな話するわけないし、おまえが勇気ふりしぼった告白ないし親愛の表明に対し、ドロ塗るような無神経はないし」
「おーいだれかそこのパラッパラッパー止めろー」
 なんか語呂を合わせながらリズミカルに口走る織田くんと、よくわからないつっこみを入れている立花さんに軽くイラッとする。
 というか、無神経はないって打ち消しすぎ。
「ジャマーをキャンセラー?」
 立花さんがなに言ってるんだか本格的にわからなくなってきたので、
「未さんが言ってたんじゃないならだれがそんはことを……」
 話を戻そうとすると、ヨシノブが力強くうなずき、
「ああ、それなら、グラマンくんがすべてを見ていたらしく、ぼくに教えてくれた」
「〜〜っ!」
 あまりのことに口をぱくぱくさせているぼくに対して、ヨシノブはさらに言った。
「『死して屍拾うものなし』と伝えてくれ、だそうだ」
「あの野郎……」
 というか、グラマン氏はいわば指名手配犯だろうに。交渉持ってること、ここまでおおっぴらに話してていいのだろうか。
 まあ、ヨシノブの問題はもっといろいろあるわけだから、じつはそれをものともしないほどの陰の実力者だったりするのかもしれないな。もはやどんな事実が隠されていても、ぼくは驚かなくなった。
「るおう……」
 めずらしくキカが教室にいて、窓際で風に当たってるので思いだし、ぼくは織田くんに訊ねた。
「そういえばバックコーラスは頼めたの?」
「立花がなんか言ったら、やってくれるってよ」
「立花さんと呼ぶか立花先輩と呼ぶかしろ」
「呼ばねーよ」
 それにしても、いったいなんと言って威したんだろう。というより、おとといはほんとうにどこにいたんだろう?
 当の本人を見ると、謎のサムズアップとともに、
「心配するな。未さんは怒っても傷ついてもないぞ」
「ふうん」

 そうですか。

 それはそれで、心配な可能性のひとつではあったのだが。
 でも、まあ、安堵しているじぶんがいるのも事実。
「またなんかあったらしいから、放課後指導室でミーティングだとよ。たしかに伝えたぜ。授業始まるからおれは帰るわ」
 言って席を立った立花さんと、席に深く沈みこむぼく。
 けっきょく、なにも終わらなかった。かなりやばかったと思うのに。
 なにひとつ終わらずに、新しい心配ごとばかりが増えていく。

「……めんどくさいな……」

 授業が開始し、そのひまな時間がスタートしたとたん、早くも戦力集め(兼容疑者集め)の算段を始めているじぶんの脳にうんざりしながら──
 きょうもぼくは、ぼくなりのアプローチとやらを真剣に検討する日を、先延ばす。