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 赤。
 焔が固体となったような紅葉のさいごの1枚が、立花の上に降り注ぎおえる。
 ああ、これが落ちたときおれはあれだえっと──
「つまんね」
 くだらないことを考えていたら、相手は拳をひっこめた。反応があまりに薄いので、とうとう殴り飽きたようだ。ぺっ、と唾を道路に吐き落とし、それっきり興味を失ったように立ち去っていった。
「……ちぇ」
 まるで釘になった気分だった。木に背中を叩きつけられるかのように殴打されつづけていた立花は、そろそろ反撃しようかなあ、と思った瞬間に相手が飽きてしまったので、すこしだけ欲求不満である。
 ゆっくり身体の汚れを払い落とすと、立花はかぶりをふった。
「ケンカはいけないよな。うん、いけない」

「とくに、売って負けるなんて最悪ね」

 だれもいないと思っていたら、赤い髪の女が言ってくれやがった。
「……世良津」
 あきらめのひきつった笑いを浮かべ、立花は声のした方向にある木を見やった。
「どこから観てた?」
 くつくつと笑ってみせながら木陰から現れた世良津侑海せらづゆみは、ひとしきり笑いつづけて、満足げな長い長いため息のあとで、
「ゲーセンであんたが獲物物色してたあたりから」
 つまり一部始終だ。
「で、なんでケンカ売っといて、いざ始まったらやられっぱなの? 殴られたかったの? なんか罪悪感をまぎらわせるためとかそういうの?」
「そんなんじゃねえよ」
 立花は口許から血が垂れていないことをたしかめると、ゆっくり歩きだした
「じゃあなにかななにかな? 殴られると気力ゲージがたまるとか? 体力ゲージも点滅まで減らすためとか? 覚醒超必殺技でも出るかしらー?」
「悪いがおれはポリゴン格闘派だ」
 横走りするようについてくる世良津に、立花は不愉快さを感じつつもとくに表明するでなく、
「世良津、ひとつ言っとくが」
「なーに?」
「おまえカニっぽいぞ」
「へ? ぶ!」

 がじゃーん。

 力強く横あいから放置自転車の束に激突し、ハデな転等音を響かせながら世良津が遠ざかっていく。たんに立花が止まらずにそのまま歩いているだけだが。
 こらー助けてけーとかいう罵声が浴びせられているような気もするが、完全に聴こえなくなるまで立花は歩くのをやめず、そのまま商店街のはずれまでやってきた。
 冬はどうにもいけない。
 うまく苦痛をコントロールできなくなる。ひいては、感覚をまともにうけとれなくなる。
 ちくちくと身を刺す寒気が、慢性的な苦しみだからだろうか。
 マゾヒストめいた行為に及ぶには薄弱すぎる根拠だとは思う。思ってはいる。
 もっとこう過去のトラウマとか欲しいとも立花自身思っている。
「だがトラウマなんてもんは本人に自覚がないから深刻なのであって、これこれこういう経験があるからこれは苦手なんだなんてマンガみたいな感じのトラウマなんてたいしたこっちゃないんじゃないのだろうか?」
 つまりこのある意味での知覚過敏も、無自覚なトラウマに起因する可能性はじゅうぶんに高いわけなんだが、
「そんな理屈はともかく……いてえ……」
「そんなに痛いか」
「ああ、あまりに痛いんできょうは学校に行く気がしないほどだ」
「そうかそうか、それじゃそんな気がしない気がしないぐらいの苦痛があればなんにも考えずに学校に来るようになんのかな、立花」
「はっはっは、まさ──」
 か!?
蒲墨かばすみ……!!??」
「恩師をためらいなく呼び捨てとはいい度胸すぎる男だ。さすがあたしの見こんだ問題児」
 すらりとした長身をバーバリーのトレンチコートで『武装』した(と形容したくなる着こなしだった)そのワンレングスの教師は、くわえタバコをゆっくり携帯灰皿へくじり捨て、ゆっくり立花の首をロックして、
「デキの悪い子ほどかわいいとか言うがあれはほんとだよな。あたしゃてめーを殺してえほどかわいいとすら思ってるし」
 首を絞めるついでに新しい1本に火をつけた。
 発言がおおげさに聴こえないほど、見るからに不機嫌そうだ。
「こ、好意と憎悪の境界ってどこですか?」
「細けえこと気にすんなよわが教え子。どっちだろうとこの蒲墨七厘かばすみしちりん、手かげんすべきところを誤るほどニコ中じゃねえ」
「職員室に入ってきた新品のパソコンやコピー機が、先生の喫ってる輸入ものの銘柄のせいで、1日経たずにまっ黄色になるって有名ですけどね……」
 ふーっ。
「!? けほっこほ」
「てめーこそ伝説更新してなんのつもりだ。意味もなくやさぐれてんじゃねえよ。学校に来づらいのは特殊な事情なんだからてめえの勲章みたいなもんだろ」
「やさぐれてません。行きづらいなんて思ってませんよ。ただ……ちょっと、めんどくさいだけです」
「そういうことば遊びはそろそろたくさんなんだよ、立花」
「そもそも先生、なんで街なかにいるんです? 不良生徒を捜しに巡回してるんでもないのに」
「教えてやろうか」
 ぷふーっ。
「げほっ、けほっ」
「休日だ。つまりいまあたしはせっかくの休みを、看過できない状況にでくわして消耗させられてるって状況だ。つまりわかるか? 怒り心頭ってわけだ」
「納得」
「おまえがすべきことは、無用なわだかまりを捨て去り、いまからでも登校して学び、友と語らい、すこしでも豊かな学園生活を謳歌してあたしの怒りを鎮めることってわけだ」
 ラクに言ってくれるぜ、と立花は思うが、
「……わかりました」
 さっきから煙に追いたてられて逃げてきた方向が、気がつくと通学路に沿っている。
 むしろ世良津からして、こちらへ送りこむために現れたように思えてきた。まんまといぶりだされたと言うべきか。
 まあいい。
 抵抗が無益で無意味で不毛であることは、だれより知っていた。
 あきらめの境地にいると、背中をすさまじい衝撃が襲う。
 暴力教師が力強く背中を張ったのだ。
「はっはあ! じゃあな! ゴッドスピードカミカゼでもあてにしとけ!」
 蒲墨はふりむきざまのウインクで別れ際だけはさわやかにまとめ、ふたたび繁華街へとくりだしていった。
 それをろくろく見送る気にすらなれない立花は、そのまま立ち止まらず学校へ歩き出す。
 もともと行かない気などなかったのだ。ただちょっと気合を入れておきたかった。
 なにしろ、きょうは、
「あ! 立花!」
 ……。
「立花ー! とぁーつぃーぶゎーぬぁー! 無視すんなって!」
 ──中等部が呼び捨てか。容赦なく。てめえ。
 さっきまで蒲墨を呼び捨てていた立花は、容赦なくその相手の襟首をつかんで叫ぶ。
「てめえこの織田野郎!!」
「織田野郎はねえだろ立花よ」
 だぶだぶ気味の制服にうずもれているような印象のちびでありながら、不敵さはまったくそこなわれない。織田テツは立花の視線を正面から受けて立つ。
 立花も負けてはいない。
「よう、テツ野郎」
「なんだこの野郎!!」
 たがいの怒りの視線が火花を散らし、そして立花は気づくのだった。
 ──なめられたくないという気持ちはこいつもおれも変わらない。
 大人になれないという意味でも、この小僧とおれは変わらない。
 いちばん度しがたいのは、それをまだ誇っているじぶん。
「……ま、おたがいバカはやめたいが、ガキはやめたくないよな」
「は?」
 面食らっている織田に、

 がづっ。

 アダマント頭突きをくれてやり、ケムリを噴いて気絶している織田をかついで、立花はまた進む。
 校門をくぐり、下駄箱を突破してスリッパを履きこみ、立花は進軍する。
「いよいよか……」

 なにしろきょうは、

 がらっ。

 教室にはだれもいなかった。
 あたりまえだ。きょうは冬休みだ。

「……よう」

 だれもいない教室に、立花は語りかけた。
「来てやったぞ」
 ぽい、と織田を投げ捨てて、ゆっくりファイティングポーズをとり、
「これで約束を守ってやれるぜ。さあ来い」
 凶悪な表情を帯びて、だれもいない教室に。

「だれに、話しているのだ」
 背後からかけられた声とともに、
 影がすべり寄ってきた、と見えた瞬間、振り向き終えるまえにそいつは襲撃してきた。

「ちいっ!」
 このために、立花はこの学校に存在していられるのだ。
 好もうと好まざると、こいつをなんとかしなければならない。
 そりゃそうだ。ボスキャラとは戦闘しなければ話にならないし、戦うにはじゅうぶんな理由が必要なのだ。
 立花は迎撃のために拳を固めて、力の限り叫ぶ。
「よし来いやああああー!!」

 *

 るるるるる。

 キカは竜だ。竜は誇りを傷つけられるぐらいなら死を選ぶ──すくなくともそれぐらいの気構えで闘争に臨む。
 だから、あんな中途な覚悟の男に敗れっぱなしでいるわけにはいかない。

 るるるるるるる。

 低く低く、常人には聴こえないほど小さく低く、地の底で響きわたるような唸りとともに、キカは標的をとらえる。

「るぉっりゃ!!」

 不意を襲ったつもりだったが、すでに迎撃体勢に入っていた立花は天井からの奇襲にあっさり対応してきた。
「うりゃ」
 キカは空中で頭部をがっちりホールドされた。片手であっさりと。
「ば……ばけものか……」
「いや、天井にへばりついてたおまえもじゅうぶん忍者だが」
「るぉ、おれは竜だっ。ニンジャじゃないぞ!」
 手足をばたつかせるが、頭をつかまれたキカの攻撃は立花まで届かない。
「マスタードラゴンか。弱いな……」
「るぬぬぬぬぬなにを言ってるのかわからんーっはなせーっ!」
 ムキになって腕を振り回してもやはり命中しない。
 これだ。
 過去、キカの動きについてこれた人間など存在しなかったのに。

「……さて」

 頭部をつかんだままの立花が、にやりと凶悪な笑みを浮かべる。
「このままリンゴのようにおまえの頭を握りつぶすのはかんたんだが──」
 立花の腕がぐわっと動き、
「そうもいかん。すまんがちゃんとしてくれ」
 キカはとうとう椅子に座らされた。
「ちぇっ」
「ちぇっじゃねえ。おれはそのためにいるんだ」
 どかん、と補習問題一式が机に置かれ、キカはうめく。
「るるるううう。おれはきさまを倒すために来ているのに……!」
 唇を尖らせながらキカは言うが、腕力に訴えたところで手玉にとられて終わる。弱点を見つけなくては。
「まあおまえがわざわざ補習にやってくる理由はそれぐらいだろうな。でも」
 立花は精悍な顔に似合わないひとなつっこい笑みを見せると、
「きょうのはいいセン行ってたぞ」
「ぐ……!」
 念の入ったいやがらせだ。
 と、キカの目が立花の服装に向けられる。
「るぉ? 汚れてるな」
「いろいろあってな……これから職員室でちょっと事情説明がある。戻ってくるまでにこれとこれは終わらせておけ」
 立花がふたつの問題を指す。
「……」
 的確に苦手だ。
 誇りを傷つけられるぐらいなら死を選びたい。ていうか死なせろ。

 *

 キカ・ヘレンズ・雛蛇ひなたは一事が万事この調子。強さも弱さもまさにこいつの個性そのものである。ちびで、三次元的に行動できる動物的な特殊感覚があり、校則違反をものともせずに両手いっぱいにものすごい数のブレスレットや腕時計を着用、そして、
「おまえとまともに会話できるのはこの立花だけだからな。しっかり学べ。おれも職員室から戻ってきたらつきあってやるからしっかりやれよー」
「るうおおおおお〜……!!」
 机の端をがじがじとかじりながら問題と格闘しているキカを尻目に、立花は教室を去ろうとして、
 ズボンの裾をなにものかにつかまれて転倒した。
 打った鼻をさすりながら立花が犯人を見やる。
「……おーだー……!」
「……たーちーばーなー……!!」
 さんをつけろよマルコメ野郎。
 ともあれ、織田がふたたび、挑戦の意志を瞳に宿し、そしてふとわれにかえる。
「って、あれ、キカじゃねーか。べえなすたるてす」
「Buenas tardes!」
 フレンドリーにあいさつをかわすクラスメイト同士だった。このふたり、ふしぎと意思疎通が円滑だ。
 まあ、こいつをあてがっておけばだいじょうぶだろう。
「すぐ戻る。ここは頼んだぞ」
「あ!? なに言ってんだおい立花置いてくな! かじられる!」
「うまく逃げろ」
「こらー!!」

「……やれやれ、なんでこんなことになってるんだ」
『中等部の問題児の補習監督を任ぜられた高等部の問題児』
 この異様な状況。
 キカに会話に値する人間として認められた立場であると同時に、取引材料としての弱みを学校に握られているのが立花だけだからだ。
 まあしかし、頼りにされるのは悪い気分ではない、と立花は思う。キカはけっこう愛らしい容姿をしているのだし。生態は完全にどーぶつだが。あごを閉じる力はすごいが開く力は弱いし。ケモノすぎる。
 ちょっとげんなりしながら、立花は職員室に向かう。
「……へくしっ!」
 ふと寒さをおぼえ、立花はおおきなくしゃみでまぎらわす。
「なんか……足りねえんだよなあ……」

 *

「……るるるるる……」
 低いいびきをかきながら、エウスカルドゥナクの少女は気高く静かに眠る。
 ケーキの山に埋もれる夢を視て、
 両手一杯に着けているアクセサリーの上にあごを載せ、その感触をのどで愉しみながら。
「るう……おなかいっぱいだ」
「……いいのかよ勉強しなくて」
 かたわらで、織田がちょこんと床に座ったままぼやいた。
「なんか、さみーな……もう冬だな」
「うん」
 少女もぶるると身を震わせ、
「おなかいっぱいだけど、しあわせはここにはない」

 不思議なひとびと、奇妙な生活、異様なる冬。
 だが、ここからなにが大きく欠落しているのか。かれらが気づくまでには、もうしばらく時間が必要とされるのだった。