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 履歴書庫の扉がこうも硬く重いのは年月が染みこんでいるからだ、とかつて師は彼女に語った。背中で扉を押し開けようと奮闘しながら、クィメィ・ホゥは納得しない。
 納得できないから、会話を回想する。

「すみません、この地は時間からも空間からも自由のはずではありません?」
 そのとき、師は答えた。
「本来時間と空間から自由な世界だったここ、ふゆうたいりくには、時間と空間の代わりになるものが固着している。なんだと思うね?」
「すみません、わかりません」
「情報の蓄積だよ、クィメィ。たとえばここにりんごが1個あるね」
 ほんとうだ、とクィメィは思った。さっきまではなかった気がする。すくなくとも、あると認識していなかった。
「りんごはただのりんごだ。だが、ただのりんごとはなんだ?」
「すみません、ふつうの、なんの変哲もないりんごとしか言いようがありません」
「そうだね。大きさも色も形も、われわれが日ごろ、ただ『りんご』と呼ぶだけのそれだ。けれど完全におなじ形状、おなじ色あい、おなじ大きさのりんごはありえない。われわれは唯一絶対のりんごという価値観ではなく、大まかなりんごという大カテゴリのなかに包含されるこの1個を、ふつうのりんごと認識しているにすぎない」
「すみません、さっそくよくわかりません」
「そう? では、これではどうかな?」
 しゃくっ、と師はりんごをかじった。
「このりんごは『ただのふつうのなんの変哲もないりんご』かな?」
「……『かじったりんご』ですね」
「そうだ。かじられたりんご、腐ったりんご、皮をむかれたりんご。これらの付加情報ステータスは時間の経過によってではなく、われわれがなにを重要視するかによって変化していく」
「すみません……」
「わからない?
 たとえば、さっきまでここに存在しているかどうかの情報すら与えられていなかったりんごが、わたしに存在を指摘されたことによって事実上『出現』したように、この世界では『これまであるともないとも言われていないが、以前からあったのだ』と言えば許されうることがある。
 もちろん『じつはぼくはもともと死んでいた』といきなり言われて、つぎの瞬間からパタリと横たわっているぼくの姿をここに出現させるわけにはいかないが」
「すみません、なんとなくわかりました。これまで生きてしゃべってきたわけですから、それをなかったことにするのはうまくありません」
「そうとも。つまりそこが時間と空間の自由度、その弾力性の限界、境界面ということになるね」
「すみません。しかしそれは、外界でも変わらないのではありません?」
「ぼくらやぼくらをとりまく存在には、寿命がない。時間単位もない。よって、明確なゲージがない。個々のたいりくびとによって、成長速度もまちまちだ。だが過去から未来への流れは存在する。これが時間からも空間からも自由な世界に制約をもたらす」
 師はクィメィの肩に手を置いて、
「というわけで、ぼくはこれからアカデミーより姿を消す」
「すみません、あまりに唐突でなにが『というわけ』なのか理解できません」
「これから姿を消すということは、ここを出て行ったあとここに存在していてはおかしいというわけだ」
「帰る帰ると言いつつなかなか帰ろうとしない友人ならいますが」
「ちがーくてー」
 師はちょっと説明に困ったあと、急にめんどくさくなったのか、
「まあそういうわけで書庫の管理をまかせる。たのんだからね」
 くるりと背を向け、部屋を出て行った。
「え!? すみません、セラト師! ちょっと待っていただけません!?」
 叫んだ瞬間、彼女の横にうずたかく積みあがっていた書物が崩れ、クィメィを下敷きにする。
 はっはっは、と笑い声が遠ざかっていき、クィメィは納得できない。
「……すみません、こういうふうに急に出現させるのはぜったい、ぜったいに、フェアじゃありません」
 涙目なのは、痛みだけが理由だった。そういうことにしておく。
 こういうのはぜったいフェアじゃない。
 ちゃんと伏線を張っておくべきなのだ、とクィメィは思った。

 という次第で、クィメィはしかたなしに、抱えていた大量の本をいったん置いた。
 それまで背中でなんとかしようとしていた扉を、手で押し開ける。
 やや重い感触をおぼえながら、クィメィは両手でドアを開いた。構造上、ここは両側に均等に力が入らないと開かない。
 年月が──情報が染みこんだ扉は、開かれた。
「……さて、ここに入るのもひさしぶりです。どこからかたづけていくか、考えないといけません」
 彼女が一歩踏みこむと、歓迎の踊りのように、大量のほこりが舞いあがった。