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プロローグ■

00X.キル・ザ・キャット■


 001.


 大気は元来、無味無臭。そして無色で透明だ。
 それが、みるみる存在を主張する。巨大な赤い、金属質の腕となる。

 じぶんにその影が落ちるのがわかる。だが、身体はなおも動かない。

 ──こいつはいったい、現実か?

 それが降ってくるのを、カイエはぽかんと眺めている。

 なにがどうなって、こんなところでこんな目に?



『ワールドグルーヴが地上を薙いで/立ってた連中の希望が凪いで/あれからたいがい時間を重ね……
 あんたの涙をおれは拭わない/あたしの怒りをてめえは知らない/表も裏も真横もありゃしない/裏切りかどうかは気持ちひとつさ』
 シェイドロンド・ジロンドのスマッシュ・ヒット『スキマチクラッシュ』は復興時代を知らない最初の世代『ジェネレーション・イグノア』を代表するかれらでしか歌えない好ナンバーといえるだろう。現代の若者が抱く漠然とした不安感、精神的飢餓感、他者との隔絶感を的確に謳いあげている点が、時代を超えていまなお十代に波及しつづけている所以だ。タイトルのマルチミーニングもヴォーカルのマギストリ・ジロンドロのお家芸といった巧みさ。『世間は概要ばかりが洪水になって溢れかえっちゃいるが具体的な内実がどこにも存在しない』という嘆きと、『それでもこの街を好きなんだ、この薄っぺらな街に生きるおまえたちが好きなんだ』という率直な愛情表現と、同時に『こんな街も、街を好きなおれも、おまえらも、すべて消えてなくなってしまえばいい』という自己破滅的な感情のせめぎあいを表〜///


 以下は濡れそぼって読めない。いや、すでに固着しているが。
 染めあげられている。
 赤く。赤黒く。
 血みどろに。

「──っ」
 だれかが息を呑むのが聴こえ、カイエは文字の国から現実に還った。
 モンストロ市最大の情報集積所。最新のものも最古のものも、あらゆる情報はここに集まる。もっとも人間はあまり集まらず、閑散としたものだったが。
 息を呑んだ人物は、わりあい小柄だった。コートをざっくり着こんで、年恰好はわからない。すぐとなりの棚で調べものをしていたらしい。カイエの手にしていた雑誌についた血に驚いたようだ。
 カイエとしては、適当に手にしたメディアをなんとなく眺めていただけだというのに、気まずいことをしていたかのようでおちつかない。
 まぎらわすついでに、雑誌を相手に薦める。
「こいつが見たいなら、どうぞ。おれには用がない代物だった」
「い、いえ……でも、それ……」
「この血か? キュリオじゃなきゃ扱わんようなただのインクのメディアなんて持ってりゃ、そりゃいまのご時世じゃ撃たれることだってあるわな」
 だが情報と名づけられたものである以上、こんな雑誌さえも集積所にやってくる。
「え! あっありがとう、けっこうです」
 相手は目深に帽子をかぶり、手と首を振って断った。
「いいの? ……ふうん」
 その声を聴き、なるほど、とカイエは納得し、雑誌を閉じる。
 キュリオ市の雑誌か。どうりでいまどき大影響ワールドグルーヴなんて時代遅れのテーマを扱っていて、聴いたこともないタイトルの歌で、知らないグループ名の歌手で、意味のわからない独善的な解説文だ、とカイエは思う。さいごのはべつにキュリオ市のせいってわけじゃないだろうが。
 遠くて近きは、となりのエクメネスフィアというわけだ。
 ともかくカイエは立ちあがり、ほかのまともなデータ・シェルフを物色した。いま重要なのは食い扶持だ。安すぎず高すぎない仕事。カイエの実力に見合ったところがあれば。腹がふくれるだけの報酬でさえあれば。
 背表紙のタイトルを確認、バインダーをとりだし開く。その瞬間、情報を運んで空中を漂っている微細な飛遊文字フローたちが強制束縛命令に反応、定着し、最新の情報を一覧表示する。

 現在のモンストロ市内でのお仕事
 逃げだしたペットを探してください。300リワード。
 潜伏中のキュリオ工作員を見つけ出せ。偽造ID1枚回収につき20。
 新型メディカルフローグループの被験者募集。800。


 景気の悪い仕事しか見当たらない。カイエは誇り高い男である。であるというのに、市内にはあまりにつりあいのとれない仕事しかない。外へ目を向ければ、

 現在の周辺砂漠エリアでのお仕事
 塩賊スラッシュボルトのリーダー、ジゴン・オーガセンを無傷で捕らえたら4000。
 攻撃作戦が数日に亘って続行中の自律方舟『ブリリアント・ボアダム』、停止させたものには1000000。
 チームによる討伐も可。


 景気のよすぎる仕事しか見当たらない。やはり廃業すべきか、と思った瞬間そのとなりに小さく書かれている補足が目に入る。

 その破片を持ち帰ればグラムあたり1リワード。

 ……よし決まった。
「やれやれ、破片回収用の装備を別注する必要がありそうだ」
 カイエは誇り高い男だ。



 情報集積所前広場は、閑散としている。
 熱心に働いているのは噴水だけで、なにやらものがなしい。
 そんなことをもの思いながら、歩きだそうとしたカイエの周囲の静けさを破ったのは、
「来い、キュリオのスパイがっ」
「やめてくださいっ!」
 背後から突然聴こえてきた、争うような声だった。カイエは立ち止まる。
 前者は巡回兵、後者はさきほど聞いたばかりの声だ。
「やっぱりな」
 振り向くまでもない。さっき『なるほど』と思ったとおりだった。
 キュリオ市とモンストロ市は敵対関係にある。そういうことになっている。
 にもかかわらずディートリック・ポータルで接続されていて、だから当然、必要とあらば行き来もある。行き来があれば多かれ少なかれ衝突も避けえない。

 さっきの娘さん、キュリオからやんごとない事情でこちらに来ざるをえなかったおひとのようだ。

 助ける義理はないが、ほうっておくのは寝覚めが悪い。
 顔は見えなかったが、声はかわいかったので助けよう。

 すこし本音を織り交ぜてカイエは思うと、ひと呼吸して振り返り、

「やめて──」
 かわいらしい声が、もういちど言う。
「ください!」

 その声とともに、中空に金属の腕が出現したのだ。

 娘さんの制止の声は、どうやら彼女の腕をねじりあげていた男にではなく、なにもいない空中に向けてかけられていたらしい。
 なにがいったい、起こっているのか。
 思考を硬直させたまま、カイエの記憶は現在に戻ってくる。

「なんでいったい」

 つぶやきながら、かれはじぶんの脳をフル活動させて、かれの手持ちの空間を情報で満たしはじめた。
 速い。われながら速い、とカイエは自画自賛する。

「なんでいったい、あんたみたいな小娘が、そいつを呼べる……!?」

 カイエはじぶんの想起速度が落ちていないことに安堵しながらも、疑問をつぶやく。
 巡回兵はしりもちをついて、声も出ない。
 そのまま坐っていてくれ、と思う。なぜなら、

 ──犠牲は、おまえひとりのほうがいい。



 002.

 大影響ワールドグルーヴによる世界の崩壊は、人間の生活様式を一変させた。地図は書き換わり、人口分布も書き換わり、なにより遺伝子と世界のしくみが書き換わった。
 かつて、たしかに世界に存在していたもの──科学は、そのほとんどが歴史の闇の底に沈み、消滅した。
 いまの人間たちは、既存の技術でそれを模倣し、可能なかぎり再現して、黄金時代をものまねしながら生きているにすぎない。
 既存技術。
 ありていにいえば……それは魔法。

 などと歴史のおさらいをしているあいだに、赤い腕は、カイエの眼前にまで迫ってきていた。
「おっと!!」
 かれは念じる。そして、

 それが出現する。

 重く、それでいて甲高い轟音がひびきわたった。
 白銀が、フィルターされた太陽光を照り返す。
 空中に巨大な剣が出現し、腕を受けとめていた。

 大影響の最たる申し子は、汚染物質『フロー』だった。大気真空ところかまわず、おかまいなしにばらまかれた『科学』の産物。通常は有機物無機物を問わず無害であり、半分生きていて、あるていど群体圧縮すれば自我も獲得する。無限に繁殖し、いずれ全宇宙を埋め尽くすといわれている。
 やつらを構成する栄養素は、情報。
 なんのためにその習性が与えられたのか、どういった原理なのか……解明の糸口すらつかめていないが、やつらは物質ではなく情報に蝟集する。だから選択的に情報を構成すれば、それを自在に操れるようになるという原理だ。

 そしてその精髄、集大成、いうなればフロー技術にとっての賢者の石が、

「『ジェゼベル』、ぶったぎれっ」
 想起機動型万能運動兵装『架空精霊エアジン』。
「……」
 沈黙によって答えたエアジン……『ジェゼベル』と呼ばれた大剣は、そのままの勢いで目の前の敵を斬り断とうとする。
「なんてパワー!」
 娘が叫んだ。
「やめてください! ひっこめて! 死んじゃいます!!」
 もうわかっていた。カイエに言っているのではない。
 あの子は、エアジンに叫んでいるのだ。
 じぶんで制御もできないのに、いや、それゆえか、腕だけでもこれほど強力なエアジンを現出させる。
「こいつは……」
 悪玉フローが中心核になっているにちがいない。
 かたよった概念を触媒にして力を増したフローが、よく陥る現象だ。圧倒的なパワーを誇るかわり、制御がきかない、操縦者を食いものにする、などの欠陥とセットになっている。
 単純な力比べでは、分が悪い。
「なら」
 カイエは気合一閃、
「あばよ!」
 剣を引いた。
「!?」
 その勢いで、それまで押し返していた赤い腕は自由を取り戻し、そのままの勢いでこちらにのしかかってこようとする。
「な! なにを考えて」
 娘が叫び、
「ふん」
 カイエの集中力がはねあがる。
「言ったろう──あばよって」
 剣の左側の空間から、新たに出現するものがある。
 こちらも、腕だ。
 騎士の鎧のような、銀色。
「ふんづかまえろ、『ジェゼベル』!!」
 轟音とともに手首をとらえる。
 そのまま、周囲の大気が渦を巻いて、剣だけだと思われたカイエのエアジンの全身が顕現する。
 その左腕が横合いから殴りつけ、赤い巨腕をそらした。
「……ちっ」
 迎撃が成功したにもかかわらず、カイエが舌打ちを発したのは、

 巨大な足が質量を獲得し、そのまま左フックの勢いを殺せずに石畳をその下の地面ごとえぐりとり、
「う、ひうわああああああ!!」
 爆発のような勢いで、砂礫が巡回兵を呑みこんだからだ。

「やっぱり、巻き添えにしちまったか」
 ひとりですんだのが、不幸中の幸いだった。
 まだまだコントロールができていないのは、カイエも同様なのだった。



 003.

 架空精霊、エアジン。
 想起機動型万能運動兵装。
 意識の底に眠っている願望からつくられるとも言われているし、そもそもエアジンは侵略者であり、人間という存在がエアジンをこちらに現出させるために扉として生かされているにすぎないという説すら唱えるものもいる。
 つまりは、すべてが謎なのだ。
 それまで、情報のやりとりや、しごく単純な超常現象を惹き起こせる程度の効果しかないと思われていたフロー。エアジンの存在が確認されたとき、その認識は一変した。
 だれもがフローをあたりまえに利用していながら、もはやフローのない社会など考えられないと理解していながら、いや、だからこそ。
 同時に、だれもがひとつの想念にとりつかれ、頭の片隅にこびりついて離れない。
 人類はとてつもない爆弾をかかえてしまったのではないのか。
 いまさら、捨てることなどできない爆弾を。
 
「『ジェゼベル』、速攻だ。戦いが長びくとまずいからな」
 カイエはじぶんのエアジンをふたたび空間に隠し、剣だけで戦おうとする。パワーは半減以下となるが、市街地で全身を出現させるのは危険すぎる。
 歩くだけで迷惑なのがエアジンだ。
「わかってんのかい、お嬢さん……」
 カイエが気にしているのも、帽子の娘が呼びだしたエアジンの性能などではなかった。いかに強力なものだろうが、制御を離れ暴走しているだけの存在に『ジェゼベル』が敗北することはありえない。
 かれの心配は、他人の集まってくることだ。
 エアジンは原則、巨大なもの。エアジンの心臓部である、存在中枢石イグジストンと呼ばれるエネルギー結晶は、最小でも直径50センチという大きさだ。そこを中心に構成されるエアジンの巨体は、ゆうに10メータにもなる。
 その巨大さだけでも、都市で完全起動すれば地獄絵図が展開される。
 すみやかにこの騒ぎを終息させ、石畳と土砂に埋もれてしまった巡回兵を助けねばならない。あわよくば生存している可能性もある。
 そして、いくら情報集積所に人が少ないとはいえ、これほどの騒ぎとなれば野次馬も現れる。被害も拡大してしまう。
 相手は、暴走しているエアジンなのだから。

「あ……あ──」
 娘はへたりこみ、頭をかかえて叫んだ。
「やめて……殺されちゃいます……殺されちゃうよ!!」
 そのことばと裏腹に、彼女を護るように空中に存在している赤い巨腕は、攻撃の姿勢を解こうとしない。右手とも左手ともつかないその指のかたちが、『ジェゼベル』の剣をつかもうと動く。
「おっとっ」
 重く巨大な、しかしそれでいて鋭い切っ先をひらめかせ、カイエは赤い腕を牽制する。
「どうやら力押しには自信があるみたいだが」
 額を汗が伝い落ちる。その額を親指で指して、カイエは言った。
「ここの差で、おれの勝ちだ」
 剣だけを出している状態にもかかわらず、カイエは勝利宣言をした。
 根拠はある。相手は片腕しか出せていない。全身が出現すればかなり巨大なエアジンだろうが、暴走状態で腕しか出せないということは、操縦者の限界がそこにあるということだ。
 ましてや──

 赤い腕が動きを変えた。

 腕の動きの基点は娘の前方5メートルばかりの位置。そこから伸びてくる腕の角度は、空間の向こう側に存在している本体の姿勢を想像させるのにじゅうぶんだ。やつは四つん這いで前方へでたらめに手を伸ばしているだけにすぎない。
 まるで、暗闇から這い出そうともがいているかのように。
「その妄執、おれの『ジェゼベル』が断ち切ってやろう」
 剣が、カイエの頭上で直立する。
 空間の外側へ隠された『ジェゼベル』が、剣を正眼にかまえたのだ。

 ましてや──こちらの手のうちを、カイエはまだ晒していなかった。



 004.

 夕闇がモンストロ市に忍び寄る。ひと気のない市営情報集積所前に広がる噴水広場で、奇妙な影が対峙している。
 髪の長い痩せぎすの青年の頭上に、巨大な白銀の、鋭くとぎすまされた両刃剣。
 帽子を目深にかぶった若い女の前方に、巨大で赤い、右手とも左手ともつかない腕。

 恐怖のときをはじめよう。忘れられない日にしてやろう。

 青年、カイエはゆっくり目を閉じる。戦闘中に自殺行為ともいえるこの動作が、かれには不可欠。
 これは儀式なのだ。みずからを深く、状況に沈みこませるための。
 はじめの想いを……忘れないための。
 相手、赤い腕の操縦者クルーは、じぶんのエアジンに、やめて殺されると叫びつづけている。
「おかどちがいもいいところだ」
 困ったな、と口許に思いもかけず笑みが浮かぶ。

 カイエのエアジン、『ジェゼベル』は、いや正式にはその手にしている剣は、かれの頭上からふりおろされた。
 赤い腕はそれを、剣の腹を叩くようにしてはじきとばした。
「ふむ」
 轟音と烈風のなか、カイエは長い髪を振り乱しながら状況を観察している。
 つぎの一撃は横合いから薙ぎつけた。敵はそれも、手甲にあたる箇所で受ける。壮絶な火花が、フラッシュのように周囲を染めあげる。
「ふーむ!」
 パワーと動きの速さは見えてきた。ジェゼベルの全身を出現させきれば、おそらくこいつを力ずくでおさえつけることは可能だ。だが、そのときは確実に、集積所まで累が及ぶ。破壊することになる。カイエはこれからも、このモンストロ市で生活していきたい。
「まったく」
 全力を出しつくして勝利する、または敗北するのは、気楽で気持ちのいいことだ。あした生きるためのきょうの日常を護ることこそが、最大の難事だ。
『ジェゼベル』が全力を出せる時空など、そうそう存在しない。すこしでも活かせる場はほしいが、そちらで戦えば勝てない日も来る。かくも人生、ままならない。
「だよな、ジェゼベル」
 ジェゼベルの剣は、無言でかれの正面に直立する。さきほど天高く掲げられたのとは対照的だ。
「……?」
 さっきからの衝撃で立っておられず、帽子を必死に押さえながら横坐りの体勢でいた帽子の娘は、その動作を見て怪訝に感じたようだった。頭上から全力でふりおろした剣でもはじかれたのだ。動きの小さくなる位置からの攻撃で、どうするのか。そう思っている。
「気になるのか」
 カイエは対峙している相手に声をかける。
「おれも気になる。おまえさんのエアジンはかなり強力だ。なぜそんな力を持っている。キュリオ市じゃエアジンはそんなに進んでるのか? これも時代の移り変わりってやつなのかねえ」
 答えはなかった。
 まあいい、とカイエは思った。
「どちらにしても、おまえはここで」
 ひゅっ、と剣が赤い腕めがけて繰り出された。
 2回の攻撃をしのいだ腕は、今回も正面から対応しようとして、
 その手首を斬りとばされた。

「──っ!!??」

 どばがっ、と石畳を蹴散らかしながら、真紅の手首が転がっていき、噴水に激突する。破片と飛沫がうなりをあげてふたりを襲う。手首を失った赤い腕が彼女を、そしてジェゼベルの剣がカイエを護った。
「ど、どうして……さっきより重さも速さも、ずっと……」
「さあ、どうしてだろうな。能ある鷹は爪を隠すってやつさ」
「うそ! さっきのだって本気だった!」
 カイエは感心した。
 ──これでなかなか、いい目をしている。
 しかし、いちおう秘密は秘密。教えるわけにはいかない。
 彼女も教えてもらえるとは思っていないらしく、答えを待たなかった。弱々しく震えているかのように見える巨大な赤い腕を、かわいそうがるように撫でて、
「……殺すの? この子を。そして、わたしを」
「ふん、まさか」
 カイエはジェゼベルに剣をしまわせた。剣は空間に解け消えた。かれはただの人間に戻ったわけである。
「えっ?」
「そいつ──名前はあるのか」
「しゅ……『修羅』って呼んでた」
「そうか。じゃあその修羅に、いますぐ巡回を助け出させろ」
「え!?」
 なにを驚いているのかと、カイエはあきれる。
「さっさとするんだ! 生き埋めになっているうちに土砂をひっくりかえせ」
 悪いことをしたら、叱ってやらなきゃいけない。しかるのち、正しいことをさせなければ。
「あなた、いったい」
 愚問だ。

 カイエには本職のほか、もうひとつの使命がある。おのれに課している。それがなにかを口に出すのは、少々照れくさい。だからすこしまわりくどく説明しよう。
 エアジンにまつわる『洗礼』というスラングがあるのを知ってほしい。
 大部分のエアジン操縦者は、生涯にいちど、偶然エアジンを呼んで大被害を起こすだけだ。たいていは、それでそのまま死ぬ。殺される。
 その場で撃ち殺されるものは、幸運だ。
 好奇の視線。近寄ってはいけません。危険だぞ。怪物め。社会の害毒め。
 はじめを生きのびた操縦者の、あとの人生は、そういった感情に晒されつづける日々となる。
『洗礼』と称される地獄の季節。
 カイエは思う。そんなものが洗礼であってたまるか。
 カイエは、知っている。
 じぶんの存在を忌み嫌わせることで成立する人格など、そんな一生など、ろくなものではない。ならばどうするか? 答えはひとつ。
 エアジン操縦者たちに、刻みつけてやることだ。エアジンをまちがいに用いることの愚かしさ、そして、それを止めようとする相手が存在する恐ろしさを。
 口に出すには照れくさい。が、その行為を表現できることばなど、カイエはほかに知らない。
 だから、カイエは、知るそのままを名乗った。
「正義の味方さ」



 005.

 手首から先がなくなっても、赤い腕は土を掘り返す役に立った。いささか乱暴な方法とはいえ、巡回兵はふたたび空気を味わえることとなり、一命をとりとめた。
「げほっ、かはあーっぐうっげーほっげほっこっ」
 事態が収拾したからか、エアジンは斬りおとされた手首ともども姿を消している。不安定で予断を許さない相手ではあるが、まったく手に負えない相手というわけではないらしい。
 当の娘は、そんなことは忘れているかのように、土の塊を吐きながら苦しむ巡回兵の背中を心配そうにさすっている。カイエは純粋な疑問を口にした。
「……で、なにをしてるのかな?」
「なにって?」
 本気で言ってるのだろうか。
「そいつは死にはしない。そろそろ逃げないとならんだろうに」
「ああ、そうでした」
 そう言って顎に指を当てた娘の表情は帽子の下に隠れて見えなかった。
「どこへ行きましょう」
 あてがなかったのかよ。
 カイエは天を仰いだ。
 周りもそろそろざわつきはじめた。この広場からでは逃げ場は少ないが、カイエも伊達にエアジン操縦者クルーとして苦労してきているわけではない。
 この場さえあとにしてしまえば、なんとかなるだろう。館内と広場の通用門、両方から姿を見せはじめていた数人の人間に顔を見られてはいるかもしれないが、おそらくあのなかにカイエのことを知っている人間はいない。
「失敬っ」
「うえ!?」
 いわゆる『お姫さま抱っこ』のかっこうで、カイエは走りだした。
「わああ!?」
「苦情はあとでだ、お嬢さん」
 レディの体重に触れるのは軽重問わず失礼だが、この子は成人かそれに準ずる年齢の女性としては軽い部類だとカイエは感想を抱く。
「え、ちょっ、あのぎゃふっ」
 舌をかむぞと言おうとしたが、遅かったらしい。
 目前には身長の倍ほどの高さのフェンスがあり、このままの状態で超えるのは困難に見える。
 もちろん、カイエにはできる。
 正確には、
「とやっ」
 カイエは跳躍した。
 跳躍しつつ、念じた。
 空中に銀色の手のひらが半実体化し、ふたりの足場となる。
「よっとーう!」
 右手と左手を足場に、そのままフェンスの上までジャンプする。フェンスの反対側の雑木林へ、跳び越えた。
 カイエは体重に耐えられる最小限の範囲だけを具現化させたのだった。戦闘の加減はむずかしいが、こういった使いかたには慣れっこだった。
「すご……」
 舌が痛むのか、口許を押さえながら娘は感嘆の声をもらした。
 そのため、着地のときに、さっきまで懸命に押さえていた帽子に手をかけるのを忘れていた。
 だんっ、とそれなりの高さからの着地の衝撃に、ふたりぶんの体重をひきうけたカイエの脚は軋む。
「く〜っ」
 そして、彼女の帽子が脱げ、肩のあたりで切りそろえられた淡いブルネットと、
 その両脇でぶるっと震えたもの──獣の耳が、あらわとなる。

「……なんてこった。おまえさん」

 その可能性をまったく考慮していなかったわけではないが。

「エクスペリか!」



 006.

 エクスペリメンタル・エクスペル。通称エクスペリ。
 フロー技術の落とし子。ふたつの都市の技術を非合法に合成した結果、どちらの都市からもつまはじきにされた、いわば技術的ハーフだ。
 こっちは知らないよ、そっちでひきとってくれ、というわけだ。
 つまりこいつは、キュリオ市からも追いだされた娘なのだ。
 と、こう説明するととても悲劇的に聴こえるが──

「猫なんだよねえ……」

 存在しないことになっているために、通常の市法では裁けないという、とてもやっかいな事情を持っている。
 それゆえに犯罪行為に利用されることもある。今回はその典型例のようだ。
 それに猫耳はないとカイエは思う。あまりに緊張感がそがれすぎる。
「鹿耳です」
 鹿か……
 どちらにしてもな。
「え? なんですか?」
 帽子を念入りにかぶりなおしていた娘が、カイエのほうを見る。
 カイエはこのとき、残念だ属性がないみたいなことをつぶやいたのだが、それは幸いにして彼女の耳に届くことがなかった。
「失礼します、お客さま」
 端正なたたずまいのウェイターが、ちょっと奇妙なふんいきを発しているふたりにうろたえながらも、平静を保ちながら声をかけてきた。
「セットでご注文されましたので、ガーリック・トーストがサービスとなりますが?」
「じゃあ二人前」
 プロフェッショナルな態度に敬意を表する意味もあり、かれはあっさりうなずいた。
 コーヒーショップ・エゼキエル。
 なにも特徴がないように見えて、なかなかあなどれない店だ。
「その」
 ひかえめな声がした。あらためて、テーブル向かい側に神妙に座っている今回のトラブルを、カイエは見やる。
「ありがとうございます。じつはきのうからなにも食べてないんです」
「どういたしまして。おれとしては、そろそろおたがいの名前を知っておくべきだと思うんだがね。ちなみに、おれはカイエという」
「なまえ……ですか」
「あのエアジンが修羅という名前なんだ。きみに名前がないってことはないだろう」
「……」
 カイエは。
 エアジンによる悪事に対しては厳しいが、それ以外のときは──お姫さま抱っこにも顕れたように──比較的フェミニストに属する男だ。
 だから、目の前で女に泣かれるのは苦手だった。
 苦手とかいう問題以前に、泣かせたくない、泣くようなことをそもそも思わせることに罪悪感をおぼえる。
「すまない。悪いことを訊いたようだ」
「いえ」
 目尻の涙を指先で払いながら、彼女は言った。
「名前は、あるんです……ただ、わたしの名前は、たぶんあなたにとって……その……ごめんなさい」
 なにを言っているのか、わからない。謎の多い子だった。
 名前を知りたかったのは決してただの好奇心からではない。カイエはすでに、今回の事件につきあう気ではいるが、そう決めたということと、彼女を信用するということは、決してイコールで結ばれてはいない。
 いつまでもそんな状態でいるのは、あまり気分のいいものではなかった。
 名前を明かしておくことは、多少なりとも信頼関係を築くためになると考えたのだ。そして、彼女は、
「わたしの、なまえは」
 名乗ってしまった。

「ジェゼベル、です」

 がたん、とカイエが立ちあがった勢いでテーブルが揺れ、コーヒーがこぼれるのと、
「ガーリッ……クトー……ストをお持ちしました」
 例の端正なたたずまいのウェイターが、あっぱれにもギリギリもちこたえたのは同時のことだった。



 007.

 ジェゼベル。
 彼女はよりによって、その名をカイエに明かした。
 偶然にしてはできすぎている。必然にしてはぶさいくすぎる。
 じつに、あいまいで中途半端なところだ。
「……だは」
 カイエは息を継ぎそこねて、まぬけな声をあげてしまった。
「おいしいですよ、ガーリックトースト」
 たしかにカリッとしていて、じつに香ばしそうだ。カイエはトーストを手に取る。
 パンを見つめながら、思案する。
 名前の件はひとまず忘れよう。忘れるしかない。
 あの赤いエアジン。
 カイエの『ジェゼベル』との関連性を考えるなら、ひとつしか──
 いやいや忘れろと言っているだろ。
「どうしたんですか? 身体の具合でも?」
 気がつけば頭を激しく振っていたので心配された。まずは腹ごしらえだ。トーストをくわえて、

 背後から窓を突き破ってきた鉄の塊をかわす。

「わ!?」
 ジェゼベル(いやでも呼ばなければならないのがきびしいところだ)嬢の叫びを気にするひまもなく、覆いかぶさってガラスの破片から護る。
「なっ、なっ、なー!?」
 よく近くで見ると、さすがはエクスペリ。瞳孔も縦長だ。
 そしてそのままの勢いで転がりながら、ここのガーリックトーストは絶品だと確信する。
 この店、ひいきにして通ってもいいぐらいかもしれない。
 まあ、あした以降も店が残っていればの話だが。
 窓をぶち破ったのはエアジンの手かと思ったが、幸いなことにちがっていた。フロー制御のひとり乗りバイクだ。人間は乗っていなかった。
 狙ってのものか、そもそもかれらが目的なのかすらわからない。
 とりあえずは逃げて様子を見よう。それにしてもうまい、とカイエは感心する。
「なに味わって食べながらアクションしてるんですかあ!!」
「まががめっへはいふわわれひん」
「わかりません!」
 腹が減ってはいくさはできぬ、だよ……お嬢さん。
 カイエは自嘲的に考える。
 いくさか。たしかにできなかった。腹いっぱい食わせてやることすらも。
 将の器じゃ、なかっただけだ。

 ジェゼベル!!

 瞬間、爆発的な怒りが生まれ、あやうく制御を誤るところだった。
 だが感情より慣れ親しんだ命令のほうが優った。エアジン『ジェゼベル』の実体化は破片を弾く防護壁として、過不足なく実行された。
「カイエさん!」
 ジェゼベル嬢が背後を指すが、遅きに失した。
 カイエは背中をしたたか打たれ、呼吸を奪われた。

 口許から離れたトーストが、視界のなかで転がっていく。

 いまの騒ぎで散った破片や粉塵にまみれ、どんどん食べられないものへと化していく。
 カイエの脳裏にひらめいたことばは、このときひとつだった。
 それはジェゼベルについてではなく、敵がなにものかについてでもなく、

 食いものの怨みをなめるなよ。地の果てまで追いつめて、きさまらの首を根こそぎ刈ってやる。

 ジェゼベル嬢の顔が蒼ざめていたのは、カイエが殴られたためなのか、それとも、カイエの形相があまりに壮絶だったからだろうか。
 おそらく両方だろう、と思いながら、カイエは鮮明な意識のまま後ろ手にふんじばられた。



 008.

 なるほど、ひねりも加えられないしっかりした手錠で後ろ手に拘束か。
 軽率なやつめ、とカイエは鼻を鳴らした。
 エアジンのクルーを、腕を封じただけでどうにかできるわけもない。

 ともあれ、脱出するのはいつでもたやすいし、ここは相手の出かたを見るとしよう。店にバイクをつっこませて陽動とは、ずいぶん大胆な手口だ。目立つのが怖くないらしい。
 うらやましいことだ。
 首を動かして、カイエはじぶんをけころがした相手の顔を見ようとする。
 相手はサングラスで眼光は見えないが、まだほんの少年に見えた。学齢ぐらいはまっとうさせてやりたいな、とちょっと思う。むずかしいだろうが。
 やつは拳銃をかまえ、不敵に首をかしげて、
「……はじめまして、だな。カイエ・デュ・パルマ」
 おや、おれと知ったうえでの狼藉か、と相手の度胸にすこし感心する。と同時に、なめられたもんだ、とも思う。
「お初にお目にかかる。おれは塩賊『ホワイトヴェイグラント』のサブリーダー、ツェッペ・ホスシ。あんたの力が要るんでね、ちょっといっしょに来てもらうぜ」
 力……
 エアジンを呼べると知っているわけではないだろう。では『もうひとつの顔』のほうが目当てか。なぜこの男は、かれの素性を知っているのか?
「なんで知ってるのか? って顔してるな。うちの情報収集力をなめてもらっちゃ困る」
「じゃあ、こちらも情報にあったのかな?」
「は?」
 ツェッペと称した男は、カイエがあごで示した方向を見る。
「……これってどれよ」
「いや、だからそのむす──」
 カイエもさすがに、そこで気づく。
 ジェゼベル嬢が帽子ごと、忽然と消えている。
 ジェゼベルという名前のつくやつは、いつもこうだ、とカイエは反射的に郷愁にとらわれた。だからどうだという話ではない……ないが、
 行動のために一瞬感情を沸騰させる役には立った。

 バギキッ

「な」

 少年はわれとわが目を疑い、サングラスを取った。意外に素直そうなブルーの瞳が驚愕に見開かれている。
 甘ちゃんだぜ、ぼうや。カイエは心の中で首を振る。
 目の前で拘束をひきちぎったやつが両手を広げたら、まずすることは、向けてる銃をぶっぱなすことだろう?
 なにはともあれ、助かった、『ジェゼベル』。
 背後で指だけ出現させ、手錠を精密動作でつまみ、ひきちぎる。サイズからいってかなりの離れ業をやってのけた愛機を胸中でねぎらいながら、後方にとびのいた。それと入れ替わりに、大気中に顕れたものがあった。腕だった。エアジンの腕部だ。そこまでおおごとにするつもりはなかったというのに。
 それもそのはず、出てきたのは『ジェゼベル』の腕ではなく、赤い『修羅』の腕だ。
「カイエさーん! はやく!!」
 とっさに逃げて様子をうかがっていたらしい。なるほど、意外にはしっこい女なのか。
 カイエの口笛と、ツェッペ少年の悲鳴が唱和した。
「うおおおおおええええー!?」
 運がよければ生き延びることだろう。
 ともかく、コーヒーショップ・エゼキエルは、絶品のガーリック・トーストごと、地上から消滅した。
「だれを怨んだもんだかな」
「なんて言いました?」
「いや、いい」

 敵対勢力から適当なやつをひっぱってこようと考えたのか? それとも……

 運命のたまものというやつだろうか?
 運命。カイエは短く舌打ちする。
 なんてこった。
 じぶんにとって一等なじみぶかく、一等憎悪することのひとつではないか。



 009.

「なんで逃げなかった?」
 あるていど逃げ延びてから、カイエは訊ねてみた。
 鹿耳のジェゼベル嬢は答えた。
「ってなんのことですか?」
「このまま捕まっている状態よりは、いい結果が得られたかもしれないのに」
「あ、わたし捕まってたんですか」
 両手をぽんと打ち合わせて、鹿娘は言いきったあと、カイエを心配そうに見て、
「どうしたんですか? さっきの破片が頭にぶつかったりしてたんですか」
「いや。これは内側からの痛みだよ」
 はっと口を押さえて、鹿娘は小さな悲鳴のように声をあげる。
「内出血!!」
「いや……まあもうなんでもどうぞ……」
 かみあわなかった。

 かれらは街の、より人の多い場所へと潜っていくように歩いた。
 いまのところあてはなかったが、企業、砂賊、相手がなんであろうと、周囲にひとが多ければ追撃の手は多少なりとゆるむことだろう。
 足早に移動をくりかえしながら、カイエが用心深く口をきいた。
「そろそろ教えてもらえないかな。どこへ向かってるのか、それだけでいい」
 とにもかくにも、目的地だ。
 カイエは依頼を受けたわけではないのだ。だから、ジェゼベル嬢の目的はあくまで本人が話す気になったときに聞かせてもらえればそれでいい。
 どこに向かっているかだけを考えたい、そうジェゼベル嬢に話すと、
「いいえ。目的を話させてください」
 カイエは内心舌打ちしなかったかといえばうそになる。事情を知ってしまえば、よけいあともどりは難しくなる。じぶんの性格を、かれは熟知していた。
「わたしのここにやってきた理由、それは、『修羅』のさいごの戦いと関係があるんです」
『修羅』のさいごの戦い。
 その物語に触れていいものかどうか、カイエはかすかに逡巡したが──
 首肯したカイエに、彼女はゆっくりと語りだした。



 ほんとうは(と、ジェゼベル嬢は歩みを止めないままに物語りはじめた)、あの修羅は本来、わたしのエアジンじゃありません。だから感情的にならないと動きださないし、動いても制御できないんです。
 わたしはあなたの運が強いことを信じて、最終的に望むものを勝ちとってしまうふしぎな力を信じて、これからのことをお話しします。
 もし敵対する側に立ったのがカイエ、あなたのようなひとなら──
 いえ、いまは話を続けましょう。
 わたしにも、すべてはわかっていないんです。たとえば修羅のほんとうの操縦者クルーが、なにを望んでいたのか、完全には理解してないんです。
 なにを──どこへ? どこへ行こうとしていたんでしょうね……
 わたしにわかるのは、ただ、あのひとの名前。
 マギストリ・ジロンドロ。



「……!」

 修羅のクルーは、キュリオ市に住む人間であれば知っているであろう名前をもっていた。
 マギストリ。
『シェイドロンド・ジロンド』のヴォーカリスト。例の記事を発見したとき、おぼえておくべきだった。気にしておくべきだった。もう遅い。
「……表も裏も、真横もない、か」
 対立する2都市をまたがって起きたこのささやかな事件が、カイエ・デュ・パルマの人生を──ひっくりかえすことになる。

 当のカイエは、思っていた。
 どちらが表で、どちらが裏か。
 答えは、修羅の戦いの物語のなかにあるのではないか。
 カイエも決して足を止めることなく、彼女のことばにひきつづき耳を傾けた。



 000.

『修羅』は──(ジェゼベル嬢は語った)修羅はもともと、白いエアジンでした。戦いにつぐ戦いにつぐ戦い、それが修羅のボディを真紅に変えたんです。
 返り血……そう、心にこびりついた返り血がそのまま装甲の色になったんでしょうか。推測しかできないんですけれどね。
 マギストリは、あの『修羅』でモンストロのエアジンと戦っているうちに、気づいてしまったんです。かれには戦う理由と、戦い続けられる理由がないって。
 だから、歌を歌いはじめたんです。
 それでも足りなくて、とうとうエアジンを捨てたんですよ。

「で、捨てたエアジンがなんでおまえさんのものになってるんだ」
「わたしが、ゆずりうけたからです」
 勤め人がゆきかうオフィス街をはずれ、ふたりは屋台の並ぶ地区へとさしかかる。
 声高く売りこむ店あり、ただ黙って売りものをつくっている職人あり、じつに各人の個性を反映したさまざまな屋台が見うけられる。
 使い手の個性がいやおうなく反映されている。まるでエアジンのように。
 鹿耳娘のジェゼベル嬢は、すこし哀しそうに微笑すると、
「ほっとけなかったんです。このまま空間のスキマに消えてしまうのが。せっかくきれいな赤をしているのに」
 ジェゼベル嬢は、さっき言ったはずだ。
 あの赤は心の返り血だと。それを彼女は『きれい』と言った。
 なんとなく、カイエにはこの娘の回路が見えてきた気がした。
 この子はあとのことは考えないし、気にしない。そもそも興味がないのだ。
 そのせいだろう。エアジンの譲渡という、とてもリスクの高い行為を実行して平気でいる。いや、平気ではないかもしれないが、すくなくともその事実にとらわれてはいない。
 特異な過去に規定された人生を歩まずに、割り切って生きている。
 新しい世代のクルーだ。
 こういう使い手が増えたとき、エアジンによる戦場はどうなってしまうのだろう。
 ひたすら有効な戦術を練りあげるのは、以前よりうまくなると思う。その手際も加速度的に向上していくだろう。
 だが、その涯に待つものは?
 戦場をゲーム盤のように動く駒以上──いや、以下なのかもしれないが──すくなくとも人間をそのようにみなして戦うこと。陳腐かもしれないが、カイエは疑わしく思う。加減が理解できるようになるのは、他人の痛覚を理解したときだ。それが得られないまま、ひたすら戦術のみをつきつめる世界が現実となったら、そのとき人間はどうなってしまうのだ?
 と、ここまで考えてカイエは重大なことに気づく。
「……マギストリは」
「はい」
「ご存命か?」
「もちろんです。そのために、魂の道具であるエアジンを捨てたんです」
 カイエは内心、そのヴォーカリストを見直した。衝動的に生きているのかと思いきや、むしろ逆だ。エアジンにとりつかれ、人生を狂わせたものと対極の生きかたなのだ。
 後世の評価などどうでもいい。頼むから、このエアジンという逆境から救われる……いや、エアジンに目こぼしされる、というべきだろうか? そんなクルーが増えてくれないだろうか。
 そうすれば、そういう人生もアリなのだとわかれば、カイエ自身だって──

「カイエさんっ!」

 考えごとは断ち切られ、身を翻らせたカイエの立っていた位置を、すさまじい勢いでバイクがつっこんできた。
 まわりの人間も、蜘蛛の子を散らすように逃げまどう。
 花道をつくるかのように、カイエのまえにバイクの通る空間が完成し、
「さっきの……!」
 肩をかすめてバイクは屋台をなぎ倒していった。
 窓を突き破り、激突し、さらに全壊したカフェのなかでも、壊れずに走るていどに動ける状態で生き残ったのだろうか。
 そのバイクはこんどは塀をなぎ倒し、無人となった屋台へつっこんで停止した。

「やっと追いついたぜ。やれやれ、せっかちなあんちゃんだな。ちゃんと話を聞いてくれよ……悪い話じゃ、ねえはずなんだ」

 サングラスの少年は、あくまでカイエを狙っているようだ。
「よかろうと悪かろうと、おれは強引にひっぱられるのがきらいでね」
「それなら安心しろや。おれは強引に押しまくるのが好きなんだ」
 たしかツェッペ・ホスシといった少年は、サングラスをはずし、そして叫ぶ。
「ここでなら思う存分暴れさせてやれそうだぜ!」
 カイエはみずからのうかつさを呪った。
 あの少年がエアジン・クルーであるだろうということなんて、だれだって見当がつく。なのにその可能性を打ち消して、ほかのことを考えてしまっていた。
「まったく、どうしたもんか!」
 いつでも『ジェゼベル』を呼び出せる体勢は解かず、相手の出現を見極める。
 なにもない空間がみるみる質量で埋まっていく。というより、空間を満たしていた大気がそのままマテリアルへ変化しているかのような、劇的な変化が起きている。
 あのバイクを中心に。
「あれもエアジンの一部か!」
「ご名答。ほんとは偶発事故で大けがでもして、おとなしくしてほしかったけどよ……そうも言ってられなそうだから、ここで潰れてもらうぜ。死ぬなよ」
 少年は大胆不敵に言う。
 そしてバイクは胸部に呑みこまれ、傍らに顕れた10メータ前後の巨人、
 架空精霊、エアジンの雄姿。
「よし、たたみこめ」
 少年の目がぎらりと剣呑な光を帯び、反射的にカイエは、
「させるな!」
『ジェゼベル』を行動させて、敵の攻撃をうけとめた。
 しまった。
 不意打ちに使えるように、手の内は隠しておきたかったのだが。
「へえ。そんな隠し芸まであったとはねえ」
 ツェッペ少年は、うれしそうに言った。
「じゃあ、あらためて紹介しよう。おれのエアジン、『スカリーワグ』の名前と姿、それから威力をいまからな!」
 エアジンが全力で戦うことのできる時空間など、そうそうあるものではない。
 だからこの少年の気持ちはわからなくもない。というより、わかる。
「……やれやれ」
 ため息が出るほどに、わかってしまう。



 00A.

 エアジンを出現させるには条件がある。かれらは、じゃまな大型物体に重ねて実体化することができない。よほど強大なパワーのエアジンであれば、巨大な建造物すら押しのけて登場できるかもしれないが、それは例外中の例外だ。ただし、腕だけを出現させて物体を払いのけてから全身実体化したり、うずくまった状態で狭い場所に出現し、それから立ちあがることならできる。もちろん、周囲を破壊する覚悟と馬力は必要となるのだが。
「『ジェゼベル』……顕現していいぞ」
 壮絶な土しぶきと轟音をあげて、騎士鎧のような白銀のエアジン『ジェゼベル』がその姿を顕した。
「おうおう、かっこいいねえ」
 ツェッペ少年がややひがみっぽく口にしたのもムリはないことだ。
『スカリーワグ』と名づけられたエアジンは、エンド・スケルトンという形容がふさわしい痩せこけた異形をしていた。
 触れるだけで折れそうな作動肢、申しわけていどに持っているコンバット・ナイフらしき刃物。どこをとっても、完膚なきまでにザコそうな風体だ。
 しかし、それにしても、間合いがつかみにくい。
『ジェゼベル』に用心深く距離をとらせながら、カイエは感じた。
 こいつの腕が挙がったとき、どのくらい『ジェゼベル』まで伸びてくるのかがいまひとつ測れない。
「よーしよし、あわてんなよ」
 ツェッペ少年はエアジンの個性を尊重するタイプであるようで、相手をなだめるように言う。エアジンも自己の意思を持ちつつ、かれのことばには従うようだ。
 カイエの『ジェゼベル』とはどこまでも対照的だ。
「そんなにやりたいってのか? あいつと。しかたねえなあ」
 愚問だ。
 エアジンは戦うしかない。戦いだけが存在理由。心臓部だけをバイクとして顕現させるなどという邪道な方法で、満たされようはずもない。
「お勉強しろ、ツェッペくん」
 まったく、相手よりこちらのほうが格上だといったところで、エアジン戦は難儀だ。未知数の相手の手ごわさも、戦いづらさも変わりはしない。いつもただ、かろうじて切り抜けるだけだ。たまたま運よく回数そうしているうちに、実績が手に入ってしまうというだけ。
「来いよ。呑み潰してやる」
 ガラスの上を歩いてるような格上のはしくれとして、せめてもの矜持をカイエは吐いた。
『ジェゼベル』を1歩踏み出させると、そばにいるもうひとりのジェゼベルちゃんに声をかける。
「お嬢さん、『修羅』にしっかりガードさせろよ。なるたけ巻きこまないようにするが、最悪死ねるからな」
「は、はい……! いざとなったら出てくれると思います!」
 帽子を押さえながら心細いことを言った鹿娘をおいて、カイエは『ジェゼベル』の手に飛び乗り、展開した胴体の内部に身を沈める。
「コクピット!?」
『スカリーワグ』の足許でツェッペ少年が驚いている。おめでたいかぎりだ。
 エアジンの戦う戦場で、エアジンの体内より安全なところなどないのに。
 そして、コクピットとして改装されたエアジン内部は、クルーの意思をよりダイレクトに反映してくれる。
「さあ行くぞ、不良少年。不良正義の味方の力を思い知れ」
『ジェゼベル』の兜の奥で、金色の瞳がぎらりと瞬いた。


 00B.

「さすがにやるよな」
「そちらこそ、りっぱなもんだ」
『ジェゼベル』は肩に傷を負い、『スカリーワグ』はそのナイフを取り落としていた。
 やはりやつの腕はリーチが測りがたい。かんたんには近寄れそうにない。
 まずは双方、小手調べといったところか。
「さて、おつぎは!」
 カイエは『ジェゼベル』を跳躍させた。圧倒的なGがかれをさいなむ。耐えられる体力がなければ、この『コクピット方式』は使えない。
 肩を装飾する外套状の装甲を外側へ展開させる。胴体上面の装甲がやや無防備になるが、高速移動するための、滑空翼として使用されるのだ。
 歯を食いしばりながら、カイエが叫ぶ。
「いくぞ!」
 空中から斬りかかることができる優位のまえには、多少の奇妙なリーチなど問題にならない。
 だが、『スカリーワグ』は、
「踏みこめっ」
 少年の声に反応し、『ジェゼベル』の攻撃の瞬間、内懐に入りこんできた。
 エアジンは人間ではない。ゆえに、相手の攻撃をどうしても回避せねばならないわけではない。
 衝撃音につづいて、カイエのいるコクピットをすさまじい振動が襲った。
「やるな」
 だが、むこうもこちらのコクピットの耐久度を見るだけの攻撃だったようだ。『スカリーワグ』は間合いを稼ぐため、『ジェゼベル』をつきはなした。
 やはり初心者の行動だ。チャンスをふいにしたかもしれないのに。
 まあ、焦って攻めすぎるよりは長生きできるかもしれないな。
「おいおいおい、あんた、なにおれを品定めしてんだ?」
 ツェッペ少年がエアジンを介して、遠距離のこちらまで音声を送ってきた。
「スカウトすんのはこっちなんだぜ」
「おれが負けたらなんて条件はいちども提示してないぞ」
「ちぇ。なんかムダな戦いをしてるような気がしてきたなあ」
 弱音めいたことばとは裏腹、ツェッペくんはまだまだ余裕があるようだ。
「でもおまえさんの動きはだいたいわかったぜ。クルーが腹の中にいるから正確な攻撃ができる反面、Gのせいでスピードに限界が出るとみた」
「なかなか冷静だな」
「あとは隠してる切り札だけの勝負だ」
「ああ、そうかもしれない」
 カイエは外套装甲を閉じさせた。肩から背にかけてがふたたび隠れる。そして、『ジェゼベル』は騎士のように正面に剣をかまえた。
 もちろんかっこつけだが、あるものを見せないためでもある。
「さあ」
「勝負だ」
 両者は正面からぶつかりあい、そして離れる。
『ジェゼベル』の姿がかき消える。
「なんっ……っ!?」
 エアジンは、クルーを体内に入れたまま消えることはできない。空中に出たクルーは地面に激突してしまうはずだった。
 だが、そのはずなのに、
「無人!?」
 そう、カイエはとうにエアジンの背後に降りていた。
 大量のエネルギー消費とひきかえに、『ジェゼベル』の部分顕現を自在に使いこなすカイエは、相手より有利に勝負を決めることができる。
 ふたたび『スカリーワグ』の背後に出現した『ジェゼベル』が、もろそうな敵の背面に剣をつきたてようとして──
 そして、剣先がカキンとはじかれた。
「う!?」
「……こんな早く手の内を見せることになるとは思わなかったぜ」
 弱そうだった背面に、いつのまにか強靭な甲殻がそなわっていた。背だけではない。『スカリーワグ』が全体的に、ひとまわりたくましくなっている。
「そいつは……まさか」
「ああそうとも。さっきまで実体化していたのはただのフレーム。武器や装甲は必要に応じて出現させられる。パーツ単位でな」
 うかつだった、とカイエは歯ぎしりする。
 中枢部(バイク)だけを顕現させていた時点で気づくべきだったのだ。
 そんな器用な芸当は、カイエにもできない。なめていた。

 カイエが内心賞賛しているのを知ってか知らずか、ツェッペ少年は不敵に笑う。
「さあ、ここからだぜ、あんちゃん」


 00C.

 足が屋台の残骸にひっかかり、転びかける。
「くっ」
 カイエは地べたを逃げまわるのがきらいだった。だからエアジンの体内にコクピットをしつらえたのだが、いまの戦法で降りてしまった。この状況で乗りなおそうとスキをつくるのは自殺行為だ。
 なお悪いことに──
「あと1回ぐらいか……」
 空間にしまったり出したりする精神力が、もう残っていない。
 こんど『ジェゼベル』を収納すれば、かれは戦闘力を喪失する。
 見栄張って、早めに手のうちを晒すんじゃなかった……。
 後悔先に立たず。
「とはいえ……!」
 装甲を得た『スカリーワグ』が驀進してきた。
「このやろっ!」
 キリキリとしびれるような音がして、『ジェゼベル』の鎧は『スカリーワグ』の手刀を完全に弾いた。
「まだまだ!」
 そのまま全身を傾けて、『スカリーワグ』の喉首をつかむ。
「しまった!?」
 ツェッペくんがさとく理解した。
 装甲を出現させられるなら、そのあるべき位置に異物があればいい。ということは、
 装甲を歪ませてしまえば、十二単できなくなるというわけだ。
「この単純にして有効すぎる発想!」
 カイエは自画自賛しながら、『ジェゼベル』に前進させる。強気の連続攻撃で、相手につけいる隙を与えない方針だ。
「たじたじしたまま、ぶっつぶされろ!」
「やなこったーっ!!」
『スカリーワグ』は手足にだけ装甲を増加させ、『ジェゼベル』を突き放した。反撃をしかけてくる相手と裏腹に、カイエは確信した。やはり胸部装甲を歪めたのは有効だったのだ。
 アイディア時点で上策だったとしても、それを実現するにあたって相手が弄してくるであろう手段は、当然考えに入れねばならない。この少年は、まだそれをわかっていないようだった。
「レクチャーだ」
 カイエは言い放ち、とどめにかかる。
 そのとき『ジェゼベル』が消える。
「……!?」
 ツェッペ少年が、絶句した。正確には消えたのは『ジェゼベル』ではない。『ジェゼベル』のボディだけだ。
 剣と、それを持つ手首がまだこの世界に残っている。
 にもかかわらず、カイエは嘲笑をうかべて、少年に語りかける。
「さあ……ぼうず。おれに打ちかかってくる気力はあるか? 気骨は? 度胸は? 覚悟はあるのか?」
 若いツェッペが呑まれたのはいうまでもなく、そして、
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
 しびれを切らせて突進してきたのもまた、いうまでもなかった。

 カイエは、
「だあから」
 愛機『ジェゼベル』に、
「甘いってんだ」
 剣を振りおろさせた。

 ツェッペはもちろん、あの剣の重さと斬りかかる速度を熟知していたので、それに対応して装甲を出現させればよかった。
 間にあえば。速度の目算が合ってさえいれば。

『ジェゼベル』の攻撃が、予想を超えて速くなければ、間にあった。

「──なっ……!?」

 驚いたのはツェッペだけではない。
 鹿娘のジェゼベル嬢も、目ざとく状況を把握した。
「わ、わたしのときとおなじ……ほんとうの動きより、速い!」
 剣がうなりをあげて突きこまれる。バイクの奥の、輝ける球体に、修復不能の傷がつけられる。
 存在中枢に切れこみを入れられれば、さすがの複合装甲『スカリーワグ』も存在できなかった。
「う、う! うおおおおおおおーっ!」
 ツェッペは叫ぶ。愛機が霧のように消滅していくのを、なすすべもなく見ながら。
「うわああ! やめ、やめてくれ! あいつが、あいつがいなくなったら……おれ!」
 カイエは、静かに言って、少年に背を向けた。

「いまのは、ガーリック・トーストのぶんだ」


 00D.

 エアジンは死なない。破壊されたエアジンはただのパーツの破片にすぎないように、破壊されていないエアジンもまた、ただのパーツの集合にすぎない。しまいこんだ『空間』で座標をとりなおし、あるていどの形状までは修復できるよう、クルーは訓練を積むことが必須だ。
 ただ、このばあい絶望的な事情がふたつある。
 ツェッペ・ホスシは確実に野良クルーだ。修理技術など知らないだろう。
 もうひとつは、存在中枢石、すなわちイグジストン部を傷つけられた機体は、そのバランスを保てなくなる。気の遠くなるような年月をかけて自己再生し、次世代以降のまだ見ぬ新たなクルーによってふたたび見出されるまで、この地上にふたたび顕現することはありえない。
 もちろん、ツェッペが生きているあいだはもう絶望的だ。
 それがわかっているから、かれは地面にくずおれて泣くのだ。
「うっ……うっ……くっ……」
 慢心した小僧がその鼻っ柱をへし折られ、自信の源を喪失するさまを見るのは、複雑な思い──おもに黒い喜びをともなうものだ。とくにカイエぐらいの、挫折を知っている年齢の男にとっては。
 ざまあみろ。
 いい気味だ。
 そうそううまくはいくものか。

 そんなものなのか?
 立ちあがってくれ。タフなところを見せてやれ。

 責任転嫁かもしれない。
 じぶんにできなかったことを、若者に肩代わりさせるだけの心理かもしれない。
 なんであれ、それは瞬間、ひらめく想念。
 けっして持続しないが、確実にある気持ちだ。

「かわいそうです」

 女にはそのへんの機微がわからん。カイエは吐息すると、ジェゼベル嬢へ向きなおる。
「かわいそくない。こいつはおれたちを狙ったし、おまえさんはこんなところで足止めをくうことになったんだぞ。おれがもういちど『ジェゼベル』を呼び出せるように回復するまでは、うかつに動けない」
「それでも、かわいそうです」
 とりつくシマがないとはこのことか。
「……まあ、たしかに、こいつの末路は決まりきっているしな」

 せいぜい10代半ばだろう少年が、まがりなりにも塩賊のサブリーダーなどつとめているのは、ひとえに力。エアジンという力によってのことにすぎない。
 若く、リスクを負うことなく無邪気にふるわれた力……想像するまでもない。
 ツェッペ少年はダース単位、グロスに届くかもしれない怨恨や嫉妬の嵐のただなかで、ひとりエアジンの腕というゆりかごで護られていたのだ。
 それがとりはらわれた未来など、ろくなものでありようがない。
 あしたまで生きていられるか、どうか。

「うっ……うわああああーんびいええああああああーん」

 サングラスはかけたまま、なさけなく声をあげて泣きはじめたツェッペに、さすがのカイエも罪悪感を感じはじめた。
「声に出しておどすつもりはなかったんだ。ついうっかり」
「うーわっ、うそっぽいです」
 冷静にジェゼベル嬢がつっこんできても、カイエはうろたえない。
「ともかく、この子は助けましょう。わたしたちは休まなきゃいけなくなったんですから、そのついでにかれをかくまってあげるぐらいの余裕ができたんです」
「どういう理屈なんだ、それは」
「愛は物理法則もねじまげます。エアジンの主成分だって愛なんですよ」
 なんか適当なこと言いだした。
 カイエはぞんざいに手を振って、
「あーわかったわかったおれも寝覚めが悪いのは好きじゃねえ、おまえさんがめんどう見てくれると約束するならな。ただし手錠はかけさせてもらうぞ」
「それが妥当な措置でしょうね」
 ジェゼベル嬢がこくりとうなずく。はて、なぜカイエは上の立場からものを言われているのか?
「……きみがモンストロにやってきたねらいを、まださいごまで聞いてないぞ。
 そろそろちゃんと教えてくれないか、『修羅』を受けとって、ここにスパイとして吊るされるのもいとわずやってきた理由をだ」
 ジェゼベル嬢は両手で帽子をかぶりなおすと、短く深呼吸して、それからひと息に言った。

「ディートリック社の『黒猫プルートオ』」
 カイエをとりまく空気が、いっせいに後ずさりしたように錯覚した。
「その完全破壊……殺せないエアジンを『殺す』のが、わたしの仕事です」


 00E.

 物語は、いったんカイエたちから遠ざかる。

 モンストロ市の中心であり頂点、それは尖塔のごとくそびえる黒いビルディングである。
『ディータワー』。
 可住圏エクメネスフィアの境界はドーム状の汎用スクリーンであるため、その登頂をつきぬけて建っているタワーについては、内部の居住環境を維持しているのは設備そのものの機構による。
 境界スクリーンの恩恵なしで、劣悪な『外部』をシャットアウトして活動できる、それはつまり、宇宙コロニー並みの密閉状況であるということだ。
 きわめて堅固な、その要塞と呼ぶべき姿によって象徴されるかれらの名を、モンストロ市民にもキュリオ市民にも知らぬものはない。
 ディートリック機関。
 現存するふたつの都市、両者に同等に存在する巨大運営組織。
 かれらは企業であると同時に、国家機関でもある。より正確には、統一国家連盟が──加盟各国の国土そのものが喪失したことを直接要因として──有名無実となったため、事実上は企業なのである。ディートリック社と呼ばれるのは愛称のようなものだが、ふつうに社員も使っている。
 かれらがつかさどるのは、交通と通信。つまり情報だ。
「であるというのに」
 ディートリック機関モンストロ支部統帥官、カルジェンティン・シダルタンは、最近深さを増した口ひげを震わせて言った。
「猫の子1匹通さないというふれこみだったはずが、ただの小娘ひとりに突破されるセキュリティとはな。いったいあれは、なんなんだ?」
 監視モニターのむこうには、全身黒衣の少女がたたずんでいる。髪の毛だけが不気味にエメラルド・グリーンの光沢を放っている。
 彼女がこちら(つまりカメラ)を一瞥しただけで、監視映像は砂嵐に変わった。
 どうひかえめに見ても、『ただの』小娘ではない。
 カルジェンは記憶を検索する。ああいう姿の怪物の存在を、どこかで聞いたことがある、と。

 騒乱の、息女。

 だとすれば、予想しうる彼女の目的は、ただひとつだ。
 かれは観念したように、少女の立っている通路に聴こえるよう、マイクのスイッチを入れると、
「侵入者。いや、もはやドウター・オブ・メイヘムと呼ぶべきかもしれんな。きみの目的を聞かせてもらいたい。こちらとしても、これ以上施設内をひっかきまわされるのは本意ではないからだ。端的に語ってくれ。交渉の余地があるなら、われわれは応じたい」
 黒ずくめの少女が『話にならない』とばかりに口許に嘲笑を浮かべると、彼女に付き随っているみっつの光球がふたたび活発に動きはじめる。
 破壊が広がっていく。
 このままでは、都市の象徴たるディータワーが倒壊する危険すらあった。
「……頼む! あれが、あの圧倒的な力が欲しいなら、いくらでもゆずってやる! どのみちわれわれの手に負える代物ではなかったのだから!」
 ぴたり、と少女の操っていた光球の動きが止まり、そのひとつが明滅した。
 その瞬間、膨大な量のデータが管制室のモニタリング・マシンに入力されてくる。
「なっ……なんだ!?」

 ──あのけものを、ちからとしてほっするわけではない。そのひつようはない
 ──わたしがのぞんでいることは、ただひとつだけ

 転送データと同時に、画面にずらずらとならんでいくもの、それは彼女からのメッセージだった。
「あの少女が口を利けないという情報は、すでに入っておりましたが……こんな手段でコミュニケーションをとってくるとは、予想できませんでした」
 オペレーターのことばに、カルジェンは反応しなかった。ただ、彼女がどんなことを言うのか、それだけに全霊を注ぐ。
 少女の真紅の瞳が、新たな監視カメラに向けて真正面に見開かれ、彼女はとうとう、カルジェンのもっとも恐れていた回答を口にした。



 ──ねこのこいっぴき、たすけたいだけ


 00F.

 それを見たエアジンクルーは、生きていられないといわれている。

 ドウター・オブ・メイヘム、騒乱の息女。
 永らく、都市伝説だけの存在といわれてきた少女。
 その薔薇のつぼみのような薄紅のくちびるは、魂をすするために。
 白く細く長い十指は、しゃれこうべを愛でるために。
 どこまでも黒いドレスは、返り血を見せないためにある。

 しかし彼女は実在した。『V.N.』『V.D.』『V.C.』。みっつの『ガンウィスプ』と呼ばれるフロー制御の光球によって、完璧に護られた謎の少女。
 活動が活発になったのはここ数年、エアジンが市街地でひんぱんに顕現するようになってからだ。
 それはつまり、エアジン戦でクルーの死亡があいつぎ、べつのクルーを求めてさまようエアジンが続出した時期でもある。

「……おまえの、せいなのか?」
 カルジェンは、喉がからからになっている自覚をしつつ、彼女に問うた。
 だが黒ずくめの少女は首を振り、ふたたび画面にことばを灯した。

 ──それを、とめるのが、わたしのやくわりだった

「だった?」
 カルジェンは、聞き逃さない。
「いまはちがうということか」
 足を止めず、少女はうなずく。

 ──いまの、わたし、は、ただ、いきる
 ──その、ため、だけに、なんでもする

「では、そのために利用するのではないのか。『猫』を。生きるために、力を」
 少女は沈黙で応じる。すでに彼女は格納庫の間近までやってきている。
 肯定も否定も、そこにはなかった。
 カルジェンの内心にこのとき渦を巻いたのは、『取引』という二文字だ。
 一方的に侵攻されていた側にいることには耐えられないが、相応の対価を支払い、それによって利益を手にする余地があるとなれば話はべつだ。損害など、いくらでも埋めあわせがきく。ましてや、相手は伝説のドウター・オブ・メイヘムなのだ。
「……こととしだいによっては、われわれは、共闘できるのではないかと思うのだが?」

 ──たたか、う

「そうだ、生きる妨げになるもの、生きる助けになること、その利害さえ一致すればわれわれは破壊しあうこともない。あえて敵を増やす必要などありはしない。ちがうかね」
 カルジェンティン・シダルタン、一世一代の賭けであった。
 殺されるかもしれない相手に、取引をもちかけたことは過去にも幾度かあった。
 しかしここまで喉頚をつかまれた状態で、それでもなお対等の交渉を試みたことは、過去に類を見ない。

 ──そう、わたし、は、

 静かにガンウィスプを操作して、そして彼女はハッチをバターのように溶き破り、格納庫へ降りた。
 そこにはなにもなかった。
「黒猫……プルートオなどというエアジンは現存しない。すでに所持者とともにこの世から消えた。新たなクルーを得る日を待って、異なる世界にある」
 カルジェンは額を伝う汗をぬぐいもせずに、言いきった。

 ──うそ、つき

 幾重にも装甲された壁面が、塵となって崩れた。
 固定措置を施されたエアジンが、あらわになる。
「……ばかな……!」

 ──このこが、ないてるこえが、きこえなかったの、あなたたちには

 獣は呪縛から解き放たれ、
 四肢をつっぱらかせて、その直後に身をたわめると、一気呵成に格納庫を駆け抜けた。
 まっすぐに、少女に向かって突進してゆき、

 そして立ち止まった。
 この獣型エアジンは、野性によって本能的に知覚したのだ。じぶんの頭部ほどの大きさしかないこの少女が、けっしてかなわない相手であるということを。

 ──おびえは、いきる、すべとなる
 ──おびえを、はじることなく、いきなさい

 獣は静かにあとずさりして、
 くるりと身を翻し、壁面をぶち破って、重力を無視するようにタワー壁面を駆け降りていった。

 ──これでよし

「なっ……」
 カルジェンは絶句した。へなへなと椅子へもたれかかる。
「ほんとうに……逃がしただけか……あれを都市に、放ったのか……!」
 単体で、中隊規模のエアジン集団を壊滅させたこともある、『黒猫』。
 あんなものが、しかもクルーもいないまま、むりやりこちら側に固定された状態でのし歩くことになれば──ディートリックといえども、市民の支持を得つづけるのは困難となる。
 なにが取引だ。
 はじめから、メイヘムを全力でたたきつぶす以外の選択肢などなかったのだ。とりかえしのつかない愚かな選択をしてしまった。
 そして、モニターにはもう彼女の語る文字はなく、
 彼女本人も、すでにどこにも映されていない。
「……プルートオを追え! ドウターも、草の根を分けてでも見つけだせっ」
 そう叫び、カルジェンは怒りにまかせて、マイクロフォンを握り壊した。


 00G.

 状況は悪化していた。
 カイエは捕縛されるつもりでいた。数日は足留めをくらうだろうが、どのみち精神を休ませないとこれ以上エアジンを呼ぶことができない。それならむしろ巡回の一時拘束所の檻のなかにいたほうが、襲われる心配をしなくてすむだけ安心だ。
 だが、カイエは忘れていた。モンストロの屋台街に、巡回がやってくるわけなどない。ここはもとより、塩賊のテリトリーだったのだ。
「まずったな……」
 頭をかいたカイエと、その足許でうずくまっているツェッペ少年と、かれをなだめている鹿耳のジェゼベル嬢の3人をとりかこんでいるのは、訓練と装備で身を固めた兵隊ではなく、全員が実戦をくぐってきたならずものたちだ。
 ツェッペくんのお仲間はいないらしい。
 そして、殺気立ったみなさんを見るにつけ、どうも無事に監禁してくれたりはしそうにない。
 じりじりと包囲がせばまってきて、カイエはジェゼベル嬢に呼びかける。
「お嬢」
「はい」
「……『修羅』はこういうときには出せないのか?」
「わたし自身の意志には応えてくれないです。命が危険になればたぶん勝手に出るんですけど」
「どのみち、不確かすぎるか」
 カイエは舌打ちし、ほかの打開策を検討することにした。
 だが、カイエが会話を終えたつもりでいたジェゼベル嬢から、つぎに発せられたことばは、あまりにも意外なものだった。
「だいじょぶです、このひとたちなら」
 帽子をきゅっと押さえて、鹿娘は言った。
「わたしひとりで、なんとかなります。みていてください」
 ──は?
 言っている意味を量りかねたカイエが硬直しているあいだに、

 ジェゼベル嬢は帽子を片手でおさえたまま、動いた。

 動いたなんてものではなかった。
 動きまわった。動きまくった。動きたおした。
 彼女は動いたように見えすらしない。
「みていろ、だと?」
 壮絶な難題だった。カイエにとって、彼女を視界に捉えることはすでに至難。彼女自身、超スピードを出している自覚はあるだろうが、はたしてどれほどその差を体感できていることか。
 一瞬にして、いやこれはさすがに誇張がふくまれているが、目にも留まらないほどの速さで彼女は、周囲をとりかこんでいたむくつけき男どもをたたきのめしていく。倒れていくのを見てわかるだけだ。
 ほとんどのごろつきをうち倒し、残りが逃げたのを確認して戻ってきたジェゼベル嬢に、カイエは言った。
「そんなマネができるなら、巡回もおれも倒せたろう? エアジンを暴走させることなんかなかったはずだ」
 彼女は、静かに首を振る。
「禁則があるんです」
「……」
 カイエには、それがどういう意味かわかった。
 エクスペリの行動禁則。塩賊は殴れるが巡回にはろくに抵抗できない、つまり、巡回や──そして、カイエにも、ある事情から直接攻撃ができなかったのだ。
「はい、あなたの正体も、想像がつきます」
 カイエはそっぽを向いて、舌を出した。
「こいつは思いがけないピンチだ」


 00H.

 エクメネスフィアが霧に閉ざされる。
 境界スクリーンによってフィルタリングされた大気は、センターの手で調節されることで天候の変化をつくられる。雨も雪も降り、ごくまれにこんな霧がかかることもある。
 逃亡者にとっては好都合だ。
 ベンチの背後を彩る植えこみのさらに奥、いちおう入ってはいけないことになっている木立ちの陰で、いかにも不釣り合いな3人が座っている。
「あんたらなんなんだよ……こえーよ……関わんじゃなかったなあーっもおーっ」
 ツェッペが横でひざを抱えてぶつぶつ言っているが、無視した。少年老いやすく後悔先に立たずだ。
 3人は屋台街エリアを抜けて、公園に身を潜めているのだった。
「で、おれたちは目的地に近づいてるのか、遠ざかってるのか」
「近いですよ。黒猫はディートリックのタワーにいるんですから」
 カイエはばつが悪そうに頭をかいて、ジェゼベル嬢に訊ねた。
「……とてもテンプレートな質問で恐縮なんだが」
「はい?」
「戦争でもはじめようって気か?」
「はい」
 鹿娘は躊躇なく答えた。
「説明がまだ途中でしたね。『修羅』のさいごの戦いについて」
「ああ」
「『修羅』が片腕だけで戦おうとしているのは、まだボディが完全に修復できていないからです。それほどの大ダメージでした……わたしの意識のなかでは勝手がちがうので時間がかかっているというのもありますけど」
「で、その傷を負わされた相手が黒猫、『プルートオ』か」
「そうです。それを、ディートリックがタワー内部に隠匿しているはずなんです」
 少年がそれを耳にし、いまさら叫んだ。
「あんたらディートリックとケンカする気かよ!?」
「見つかる気かよ」
 カイエは大声をあげた少年の後頭部をつかみ、顔を地べたにぐっと押しつける。
「まむごんむぐっ」
「いいから黙って聞いとけ。なんかあるたんびに中断されてなかなかさいごまで話が聞けてないんだ」

「今回も話せそうにないです」

「は?」
 カイエがジェゼベル嬢の意図をはかりかねて訊き返す。彼女のほうを見やると、帽子をとって鹿の耳をそばだてていた。
「聴こえませんか」
 もうカイエにも感じとれる。
 この振動。巨大なわりに軽量なエアジン独特の、移動時の揺れかたに相違なかった。それも、
「二足歩行の移動じゃないな」
 ジェゼベル嬢はうなずいて、帽子をかぶりなおすと、言った。
「マギストリと『修羅』は、あくなき戦いの旅の涯に、あいつに出逢いました」
 ゆっくり立ちあがり、右手をかざし──
 前方から、霧に隠されていたそいつが猛然と近づいてくるのを、迎え撃つ。

「『黒猫』!!」

 伝説のエアジンが、漆黒のボディと獣の四肢を霧越しに誇示しながら迫る。
 どうしてこんなところに、と思うひまなどなかった。
「お嬢! おれはエアジンを呼べねえ! いまは逃げ──」
 ジェゼベル嬢は左手で帽子をおさえたまま、赤い手のひらの上に乗った。
 足許のエアジンに、叫ぶ。
「しっかりして! いま光らずに、いつ光るんですか!」
『修羅』の修復が、完了している……いや、
 これまで出現していた右手とは逆の手だ。
 ぎををををををを、と、耳をつんざく音を立て、地面からわが身をひきずりだそうともがくように、その左手がもだえている。
 ジェゼベル嬢が瞬間、蒸発した。いや、手に呑みこまれたかのようにも見えた。
 主人を喪った帽子がひらひらと、カイエの手へ落ちてくる。
 それをはっしとつかんだカイエは、なにごとかを静かに考えている。
「修羅……」
 赤い手のひらが、さらにまばゆくオレンジに輝いた。
「左手……修羅の……」
 カイエは、はっとした。
「お、おい、なにぼーっとしてんだよ、逃げねえと!!」
 ツェッペが叫び、かれの腕をひっぱったが、
 つぎの瞬間、突風に襲われてふっとぶ。
 衝撃波だ。2体が一合まじえたのである。
 衝突の余波が、霧を吹きはらった。白い渦の中心に、2体の巨大な影が対峙している。
 まだ、『修羅』のボディは完全顕現にはほど遠い。
「殺せないエアジンを殺す──だと」
 カイエは突風のなか、直立不動で2体を見つめていた。見つめながら、かつて耳にした物語を思い起こしていた。
 戦いだけを追い求め、ある日その矛先を見定めたという、修羅の物語。左手に力をたくわえ、右手で敵を蹴散らしていく日々のなか、たったいちど使える必殺の力を左に宿したという、神代の世界から語り継がれる伝説。
鎧徹しTHROUGH THE KNIGHT……!」

 修羅の弓手は、透徹の力を秘める。

 霧の残滓をまとって、1体がぐるぐるともう1体の周囲をめぐり、相手との距離を測る。膠着状態だ。
「フギィアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ」
 その状況に業を煮やしたか、産声のような怒りの咆哮とともに、ぐるぐると歩いていた黒猫が首をもたげて『修羅』の左上半身を睨む。
 カイエはそのとき気づいた。黒猫の頭部についている1対のセンサー・アイのうち、機能の光を灯しているのは、左目だけ。
「あの傷が……修羅と戦った代償か」
 なるほど、双方にとって因縁の対決だったようだ。
「く」
 カイエは歯がみした。
 精神力を使いはたしたかれには、いま『ジェゼベル』を呼ぶことができない。ツェッペ少年とおなじく、逃げまわるしかない。
 それがくやしいわけではない。カイエにとって無念なのは、ただひとつ──
「おれも、しょせんこいつらの同類ってわけだ」
 それでも、戦いに魅入られたかのように、この場を動くことができない。


 00I.

 ……かつて音楽の世界で『グルーヴ感』ということばが信仰されていたのをご存知だろうか? 心地よい楽曲に共通して存在する独特のムードのことを指し、具体的科学的に解明されたことがいちどもなかったにもかかわらず、音楽を好むものすべてにとって共通する認識だった。かつてまちがいなく認知されていた概念なのだ。そしてかれらは、なぜかその実体を知らないままよしとしていた。
 そしてまた周知のとおり、人類はワールド・グルーヴという名の災害によって絶滅の危機に立たされた。これもまた、その実体を知らないまま人類はどうにかこうにか復興を遂げ、現在に至っているという皮肉な現実がある。
 これら状況は、ひとびとが『なんとなく便利だから』というままフローという怪物を乗りまわしている現在と相似形ではあるまいか? 過去から学びもせず、理解しているつもりになって、いつしか取り返しのつかない事態が待っているかもしれないという現実に目をつぶりながら、着実に、こんどこそ完全な滅びを迎えるかもしれないにも関わらず──その度しがたさに、わたしは戦慄を禁じえない。
 ファーリー・ワッカーソン『空気という名の神を崇めて』より


 黒猫が疾走する。
 修羅が迎撃する。
 2体のエアジンが、壮絶な速度でふたたび激突する。
「──すげえ」
 しりもちをついたまま、ツェッペがずり落ちたサングラスの下の青い目をみはる。
「ケタがちげえ……」
 スピードも、パワーも、挙動の洗練も。
 無人のエアジンが本能にまかせて動きまわったとき、その戦いはすばらしいものとなる。
「ちっ」
 カイエは恨めしそうにその光景を見ていた。すこしでも戦場がずれて、巻きこまれれば逃げる間もなくまず死ぬだろう戦闘を前にして、まんじりともせずそこにいた。
 赤いエアジン『修羅』は、徐々にだが、その姿を完全なものとなしつつある。地面に見えない穴があるかのように、そこから這い出すかっこうで、上半身がかなり出現している。背をたわめているようで、頭部はまだ見えない。だが、着実にこちらに出ている部分が増えてきている。
 ふたつの鉄塊がぶつかりあう。どちらもあまりになめらかに、生命を持った動きでたがいを打ちのめしにかかる。
 味方すべき正義は、どちらにもないかに見える。
 そしてカイエに、もとよりどちらかを助ける義理などない。ただ見届けるだけだ。
 カイエは、手にした帽子を、握りしめる。
「ジェゼベル……!」
 過去のジェゼベルを呼んだのか、帽子のジェゼベル嬢を呼んだのか、じぶんのエアジンを呼んだのか。それはかれ自身にもわからなかった。
 ただ、呼ばずにはいられなかった。

「ジェエエエエエゼベエエエエエーッル!!」

 左手の上で消滅したエクスペリの女。だが、彼女は生きている。
 クルーが死んでも存在できるエアジンはない。だからどんなに制御できなくとも、クルーだけは護る。それがエアジンだ。
 よって彼女は死んでいない。手から消えたのは、どこか安全なところへ隠したにちがいない。
 しかし、それにしても、どこへ?
 ツェッペの声が意識の外で聴こえている気がするが、とりあっているひまはない。
 エアジンがふだん隠れている空間に人間を連れていくことはできない。エアジンの能力に瞬間移動やそれに類する特殊能力はない。
 では、どうやって、どこへ?
 それは彼女が意図したものなのか? 意図したものなら、なぜかれらに話さなかったのか? ただ語り終えることができなかっただけだろうか?
 彼女はなにを知り、隠しているのか? なにを知らず、語れないのか?
 修羅のさいごの戦い。そこに正義はあるのか?
 考えているあいだに、ふたたび視界に霧がたちこめる。
 どのみち戦闘に参加できないカイエは、思考に意識をふりむけるしかなかった。
「逃げろよって!!」
「おう!?」
 急に胴に衝撃を受けて、カイエは転倒した。
 なんだ、と思った瞬間、頭上を黒い、大きな破片がゆきすぎた。プルートオの装甲のかけらであろう。
 助かった。衝撃を受けたあたりを見ると、ツェッペくんがしがみついている。タックルをかけてくれたのだ。
「やっべえーから逃げろって言ってんだろ!!」
 ひとりで逃げずに、助けにやってきたのだ。
「そうか」
 カイエはゆっくりと立ちあがると、ふたたび戦っている2体を見た。
「そうか、そうだな」
 腹は決まった。
 この少年は、じぶんが巻きこまれる危険をかえりみることもなく、カイエを助けた。打算や興味からではなく、衝動で。とっさの動作として、結果的にカイエがいま無事でいるという現実を、少年はつくりだした。
 もしそれに理由があるというのなら、あとでゆっくり考えればいい。
 もっとだいじなことを見失ってはいけない。
 いま、かれがしたいことは、あの2体の戦闘を眺めることでも、どちらが正義なのかを考えることでもない。
「よおおおしわかったあああああ!」
 カイエは走った。霧のなか、戦闘のただなかに向かって。
「ちょっっ、おい、あんちゃん! なに考えてんだ!」
 なにも考えない。
 赤い機体が、左手をかざす。
 さいごの一撃の、準備にかかる。
 刺しちがえの一撃のため、『修羅』が左手のオレンジ色をさらに灼熱させ、白く輝かせる。伝説の、鎧徹しのかまえ。
 カイエはコートをはためかせ、怒りの形相で疾走する。
「こっのやろおーっ、させるかよ!!」
 もう『ジェゼベル』を呼べる精神力は残っていない。
 戦うことはできない。
 だが、
 呼ぶことはできなくても──
「だあっ!!」
 2体のエアジンがたがいに必殺を期してはなった一撃の、焦点を結ぶまさにその位置に、カイエは躍りこんだ。両手をそれぞれの機体へ向ける。浴びたら確実に即死となるふたつの攻撃のまえに、あまりに無力な手をかざす。
「っりゃあああああああーっ!!」
 カイエはいま、おのれの精神の限界を超える。

 霧がふたたび、ゆっくりと晴れていく。
「……は」
 呆然としていたツェッペが、サングラスを外す。視界の先に、ふたつのエアジンはなく──
 両手をかざしたまま、カイエが仁王立ちしていた。
「『ジェゼベル』にはちょっと窮屈かもしれんが、がまんしてもらわないとな……!」
「んな……ばかな」
 ツェッペはわが目を疑う。
 他人のエアジンを格納する技術など、存在しない。そのはずだ。
「あんた、ますます、なにもんだよ」
「──教えてやろうか」
 カイエは、少年を憎々しそうににらみつける。より正確には、少年の質問を憎んでいる。その問いがいやおうなく掘り起こす、過去を。
「おれも、エクスペリなのさ」


 00J.

 カイエ・デュ・パルマという名を名乗るようになったのは、3年前からだ。
 それ以前の名は……思いだしたくもなかった。ただ、かれを合成した白衣が口にした、かれの肩書きは、いまでも鮮明におぼえている。

 ミュール。

 まさかつっかけのことではあるまい。かといってラバなんて生きものは当然ながら見たことがなかったが、知識としては知っていた。もちろん、そのままの意味をこめた愛称などであるはずはないことも。
 カイエは──当時はまだ思いだしたくない名だったかれは、ある日その意味を知ることになった。
 ミュールとは、運び屋だ。なにを運ぶのか? 死を、だ。
 ドラッグ。
『薬』という表現がきわめて皮肉に響く、かつて世界に存在した死の粉だ。いくつもの都市を滅ぼしてきた悪魔の発明。ワールド・グルーヴ以前は全世界に流布していたという、
 現在ではブレンシェイキン・フローにとってかわっている、一種の嗜好品であったそれは、法に触れる。もちろん、国境を越えて運ぶのは至難だった。
 ミュールはそこで必要とされる。
 ドラッグをコンドームにつめて、呑みこむ。そうして、胃袋のなかに隠し、運搬する。
 苦しくないのか? 愚問だった。もちろん苦しい。まして薄いゴム製品が胃袋のなかで破れたときには、致死量の薬が一瞬で全身を侵し、死に至る。
 そのリスクを背負うのは、たいてい貧しい子どもだ。あたりまえのこと。選択の余地のある人間であれば、そんな自殺行為などしない。安全に、ゆっくり腐りはてながら、楽しみに耽る側だろう。

 ミュール。ミュール。ミュール。

 カイエはかつて、そんなふうに呼ばれる存在として、つくりあげられた。

「……ひさしぶりに、不愉快な回想をさせてもらったぜ」
 エアジンはあくまで、性能の微妙な差はあっても、直接攻撃主体の頭の悪い道具であった。そこに知性が介在するとすれば、クルーの技能だ。
 出現と格納、これこそが架空精霊エアジンの白眉たる特性であり、この機能を完全に使いこなしたものだけが、戦いを制するのだ。
 ディートリックは、いちはやくそれに気づいた。
 2都市の技術を折衷して開発したエクスペリ、圧倒的なまでにさまざまなバリエーション、そのあくまで1パターンにすぎないのが、カイエだ。
 バリエーションのひとつ。
 ただ、ちょっとつくってみただけのこと。
 だがその人生は、生まれさせられた当人が負うことになるのだ。
 カイエは両手をゆっくり閉じると、意識のなかに焦点を合わす。ずっしりとした量感をおぼえる。かれの脳にむりやり増設された領域に、ふだん見かけることのない新顔が──さっきまで戦っていた2体のエアジンが、不服そうに閉じこめられているヴィジョン(もちろんただの錯覚だ)を視る。
「いい子にしてりゃ、すぐ出られるさ」
 すこしだけ気持ちが和んだ。
 目的は達成していない。そもそも鹿娘自身が姿を消している。どこへ立ち去ったのか、隠れたのか。なんにせよただちに探さなくてはいけない。このまま機体を預かっているわけにいかないからだ。
「おい、あんちゃん……やべーんじゃねえ? 霧が晴れりゃ騒ぎを聴きつけた連中はこっち来るぜ」
 わかっている。そんなことは百も承知でいる。
 だが、カイエは動けなかった。
 なにかが、長年戦いつづけてきたかれだからこそ感じとれるなにかが、世界そのものを断片化したような重要なパズルのピースが、まだ足許に落ちている。そうカイエは認識していた。
 この場を、動くことはできない。まかりならない。
「ツェッペ。おまえひとりで逃げろ」
「冗談よせよな」
 冗談などでは、ない。
 なにかが、ゆっくり、こちらへ迫ってくる。それも、この空間からではない。
 カイエはエアジンを呼べない。なのに、相手は確実に着実に、かれらの視界にすでに現れていいほどの至近にやってきている。
「……現れるわけがない」
 なぜなら。

 敵の目的は、かれのなかのエアジンを直接ひきずり出し、じぶんたちの現実での肉体にしてしまうことなのだから。
 邪悪な魂は、常にエアジンを狙っているのだ。圧倒的な力を利用するためだけに。
 それは『友だち』とはまったくちがうもの。
 求めつづけたあたたかさとは、一切異なるもの。
 そして、それを止めるには──

 地面が、だしぬけに血で染まった。
 カイエの頭が、鮮血でしとどに濡れている。
「──へっ」
 こめかみから鮮血を噴きだしながら、カイエは短くこう言った。

「よりによって、おれのホームグラウンドでしかけてくるとはねえ」

 カイエは精神のなかのエアジンを、鮮明にイメージした。ヴィジョンを出現させた。これは敵を『頭んなかで』好き勝手に妄想するのとはわけがちがう。敵はしっかりと過不足なく脅威として──そしてじぶんの格納しているエアジンは、かれの自由に動かせる手駒として認識せねばならない。
 精神を直接襲ってくる敵に打ち勝つ、それが唯一の戦法だ。
「カ、カイエのあんちゃん!?」
「集中させてくれ」
(……タイプ……ミドル級、重量バランス……良好、統合完成度……並、動作……精密性にやや難)
 頭のなかで、相手がどんな動きをしてじぶんの精神を蹂躙しようとしているかが、見える。
 まちがいない。敵は迷いこんできたのでもなんでもない。明確に攻撃の意志をもっている。
 相手の精神に格納されたエアジンを破壊し、相手の精神そのものを破壊することに特化した、精神暗殺系エアジン・クルーだ。
 だが、相手が悪かった。トランスポーター・エクスペリは、じぶんの精神のなかでなら、格納しているエアジンを同時に動かすことができる。
 追いつめたと思っているなら、それは残念でした、だった。
「そうかんたんには、食えないぜ」
 カイエは額から口許へ滴ってきた血を、獰猛になめた。
「ミュールを敵にまわしたことを、とっくり後悔するんだな」


 00K.

 深緑の少女が、たたずんでいる。
 彼女、ドウター・オブ・メイヘムは、どこかで静かに観察している。
 本来踏みこめない領域、エアジンの格納されている『どこか』での戦いを、彼女はあくまで観察している。
 銀色が、戦っている。みっつのエアジンを操って。
 みっつ……? いや、ひとつは半身しかこの世界にいない。だれかと存在を共有している、あるいは奪いあっているらしい。
 もうひとつは、この空間であっても関係なく、かれの制御を離れかけている。それでこそ解放したかいがある、とドウターは思う。逃げた先で新たな飼い主を探すようなことでは、黒猫の資格がない。
 あの銀色には、手に余るくらいでなければ。
 ともかくかれの戦力は、ふたつよりは多く、みっつには届かない。

 ──さあ、がんばれ
 ドウターは魂でつぶやいた。
 ──がんばれぽんこつ、ちゅうとはんぱですきだらけの
 ──スリー、マイナー


 頭がずっしり重い。定員オーバーなのだ。
 どこかでおれを小ばかにするやつがいる、とカイエは一瞬だけ雑念に襲われたが、すぐに戦闘に気持ちを戻した。
 敵は、カイエの心のどこかのエリアを、占有しようと躍起になっている。といっても直接記憶をのぞけるわけではない。あくまで空きスペースを利用してじぶんのエアジンの足がかりを得ようというのだ。
 させてたまるか。
「プルートオっ」
 黒猫エアジンに、直接攻撃を命じた。
 スピードを旨とする黒猫のイメージが、片目をぎらつかせてかれに応える。だがやはり野性のエアジン、まっすぐ相手のイメージへ向かわなかった。カイエの自由になるはずの精神空間であっても、唯々諾々と従うわけではない。
 では『プルートオ』はどうしたかというと、敵の移動先を制圧したのだ。
 精神空間での戦闘は、まずじぶんの自由がきくように領域を塗り替えていく勝負となる。四つ足の『プルートオ』は、敵が欲しがりそうな場を先に陣取り、容易には上書きできないよう、じぶんのものにした。
「おれの心をケモノくさくしやがって」
 文句を言いつつも、カイエはプルートオの機転に舌を巻いた。なるほど、ダテに制御不能の化けものと言われているのではないわけだ。生きのびるためならなんでもするらしい。
 ともあれ、相手は追いつめられた。動きの大味なミドル級エアジンのイメージ。カイエの、敵だ。
 カイエは思いだしていた。
 訓練時代、世話になった教授について。
 ディートリック首脳陣によれば、エアジンはフローを介し、ひとの精神を侵してこちらの世界に出現しようとする、この世ならざる生命体だという。だがその本能は、クルーの力しだいでおさえることができる。
 さもなければ、世界はとうにエアジンに支配されているはず。
 教授はその当時、上層部の導き出したその結論に反発していた。
 制御できているのは、あくまでこちらの世界に出現するためにおとなしくしているだけだったらどうするのか。いつでもこちらの思惑を離れて、いっせいに人類を蹂躙し、そのあとは自由にふるまえるような連中でないという保証など、ありはしない。ただエアジンを便利に利用したいだけの願望から、楽観するのは軽率だ。人間とエアジンの関係は主従ではなく、あくまで契約的なものと考えるべきだ。
 上層部はとりあわなかった。
 だから、たった1体のエアジンに壊滅させられた。
 その日カイエは自由の身となり、地獄を脱することができたが、ディートリックはなにものかの手によってその後も存続している。
 黒猫はその謎の鍵を握っているのかもしれない、とカイエは思い当たる。しかし、それがいったいなんなのか。
 いまさらカイエに、こんな状況を与えて、なにを解けというのだろう。
 そう疑問を抱いた瞬間、敵がこちらに向けてなにかをしようとした。わざわざそのために投入されたエアジンだ、なにかおそろしい対精神兵器を装備している可能性が高い。
 追憶にふけっているばあいではない。ふりはらうように首を振り、
「ジェゼベル!」
 もっとも長く戦場を共にした騎士のエアジンに、突撃を命じた。
 敵の回避運動をとれる範囲は、かぎられている。銀の剣をかかげ、切っ先に必殺の力をこめて、猛然と『ジェゼベル』のイメージは突進する。
 敵の肩に、剣がくいこむ。なんらかの行動をとろうとしていた相手が、その動きを封じられた。
 いまだ。相手が動けない、ここがチャンスだ。
「修羅、行け!!」
 とりこめたのは半身だけだが、この空間では意志が伝達するはずだ。
 左腕がぎらりと光る。だがその力はここで使ってもらっては困る。カイエの推測が正しければ、左腕の必殺の力は修羅の犠牲を必要とするからだ。
 まだ犠牲になってもらうわけにはいかない。謎のエアジンからは、いろいろと知りたいことがあるのだから。ここは、それより、本来の力技で攻めていってもらわねばならない。
 赤い左腕が手刀をつくり、腰だめに貫き手の姿勢で敵の腹部をめがけ、一撃した。
『ジェゼベル』に押さえつけられていた敵に、回避のすべはなかった。
 中枢石が存在するであろうポイントが、的確に貫かれる。
 相手のエアジンは機能を停止した。溶けるようにパーツを崩壊させていき、やがて気配を完全に消し去った。
 やつは、カイエの精神からたたき出されたのだ。

 ジェゼベル。
 修羅。
 プルートオ。
 精神空間で同時行動させるには、3体はとてもすぐれたバランスのとりあわせだ。
 コントロールが完全でないのだけが難点だが、今後、新手の刺客が襲ってこようとも、脅威とはならないだろう。
 こちらはしばらく安全だ。カイエは意識を通常の空間へ戻そうとした。
 戻そうとした。
「……!」
 かれの肉体が、意識をとりもどそうとしない。
「なんだ、これは!?」
 カイエは、じぶんがなにものかに罠にかけられたことを知った。

「あ、あんちゃん?」
 サングラスのズレを直し、ツェッペ少年がカイエをまじまじと見つめる。顔のまえで指を鳴らし、手を振ってみる。平手でやや強めに頬もはった。
 反応がまったくない。
 カイエが、心をどこかにもっていかれたように、目を開けたまま意識を喪っている。
「おい……戻ってこいって、おい!」
 霧が晴れかかってきた。あいまいな視界のなか、人影が姿を現しはじめる。
 塩賊たちが、戦いの終わった気配に乗じ、ゆっくりかれらを包囲しているのだ。
「おいおいおい……助けてくれよ……! まじどうすんだこれ!」
 エアジンは使えず、頼りにしていたカイエは意識にダイヴしたまま帰ってこない。
 ツェッペ・ホスシ、絶体絶命のときだった。


 00L.

 脱出できない。
 じぶんの精神空間から、カイエは現実に立ち返ることができなくなっている。
 おそらく、現実に意識を切り替えるためのルーティンに、無限ループのトラップをかけたやつがいるのだ。
 しかも、かけっぱなしで逃げてはいない。まだ視線を感じる。
 撃退した刺客ではない。あいつではない存在が、まだこの空間に残っている。
 カイエの意識に増設されたこの仮想空間は、あくまでかれの意識によって制御しやすいようにイメージ構築されただけの世界だ。エアジンが現実に頭のなかに格納されているわけではなく、格納されたエアジンを修理・改造するシステムを応用してチャンネルすることによって、複数体をむりやり制御できるようなキャパシティを与えられた、強引なシステムだ。
 エアジンが存在するかぎり、外部から干渉することは不可能ではない。
 たしかに不可能ではないが……
「それをさせないための防壁が何重ほどこされてると思ってるんだ、いったい」
 カイエは苦々しくつぶやいた。こうも他人の侵入を許していては、おちおちじぶんの特性すら利用できない。いや、できれば利用したくもないものではあるが。それにしても、じぶんのアドバンテージが根底からゆらいでしまう重大事だ。
 不安は解消しなくてはいけない、とカイエは思った。この場できちんと相手を倒さなければいけない。さもなければ、倒されるか、かもしれないが。
 エアジンはひとまず休ませて、カイエはじぶんを観察しているなにものかへ問いかける。
「だれだ、おまえは?
 そして、どんな気分だ?
 戦いに気をとられている隙にまんまと意識のなかに閉じこめて、籠の鳥のおれを、ニヤニヤ笑いながら観ているっていうのは」
 答えがあるとは期待していなかった。
 だから、
「……ニヤニヤ笑いながらは観ていませんでしたけど、そのほうがよければわたしはいまから笑います」
 と返ってきたとき、カイエは死ぬほど驚いた。
「それで、あなたの気が──すむというのなら」
 新たに現れたイメージに、カイエは深呼吸しておちつくと、あらためて対峙する。
「ああびっくりした」
 驚いたのはいきなり出てきたことに対してであって、相手が彼女だったというのはさほど意外でもなかった。
「やっと説明がもらえるのかな、ジェゼベルのお嬢さん」
 鹿の耳をそなえた女が、かれのまえに立っていた。



 さて、ツェッペも男の子である。
 ここを乗り切れなければ、プライドを捨ててまでカイエのそばにいる意味がまったくなくなってしまう。
 エアジンなど、また直せばいい。かれ自身にその技術はないが、どこかに修復できる職人ぐらいいるはずだ。
 重要なのは、そこまでを生きのびること。
 カイエはうってつけの盾になると思った。だからこそ、敗北したばかりという屈辱を忘れてでもくっついていたのだが、いまのかれはむしろ、ツェッペが護ってやらねばならない無防備っぷりだった。
 置いて逃げない理由はない。
 いや、こじつければあるかもしれない。かれの現在の状態はごく一時的なものにすぎず、この先を生きのびるにはやはりカイエの力が必要である、とか。
 だがそれはあくまで不確定な可能性でしかない。あえてしがみつくほどの確実性はまったくないのだ。
 あらゆる可能性を検討すれば、ツェッペにはもう、動かなくなったカイエをこのまま捨てて、ひとりで逃げるのが最善の策なのだ。
 なぜ、そうしない?
 なぜわざわざ、公園から屋台エリアに逆戻りする羽目になりつつ、お荷物を手離しもせず逃げ場を物色しているのか?
 どうしていまだに──
 ツェッペ・ホスシは、カイエというリスクをわざわざ、文字通り背負って、塩賊どもの追跡をかわしながら走っているのだろうか?
 本人もわかっていなかった。というより損得勘定をするヒマもなく逃げねばならなかったのだ。冷静に考える時間がすこしでもあれば、捨てて逃げていたかもしれない。カイエにとって幸いだったことに、少年は頭が悪かった。
「重いなちくしょうめ!」
 意識をどこかに漂わせたままのカイエをおぶって、ツェッペは逃げ道を探しさまよっていた。霧の名残とつぶれた屋台の陰を縫うように、着実にもといた場所から離れていく。
 こうやって逃げていると、うんと小さかったころの日々を思いだしそうになるが、思いださないようにツェッペはがんばった。つらくなるし、動きも鈍る。
 いまはもっと優先して頭を使わなければならないことがある。
 たとえば、こんな話について考える必要が。
 屋台は塩賊の生活の手段のひとつであり、情報交換の場であり、隠れみのでもある。なんとなく決まったところに決まったグループの決まったやつがいる。だから、いま『仕事』に出ていて手薄なエリアをツェッペはあるていど把握している。それを正確に記憶から取り出していけば、脱出できる。
 さっきカイエの連れの女が蹴散らした連中と、そいつらを回収して身動きのとれない連中は数に入れないですむが、まだかなりの敵が残っている。ツェッペが見知らぬ男を背負って歩いているところを見て、なにごともなく逃がしてくれるやつはいないだろう。
 なぜなら、さきほどカイエが看破したとおり、ツェッペはじぶんのエアジン『スカリーワグ』を笠に着て、かなりのやんちゃをしてきたからだ。
 もしいまのじぶんがエアジンを使えないと知れば、おそらくこれまでひどい目に遭わせた連中から、3倍か4倍になったお礼がくるだろう。
 おなじ理由で、エアジンが復活するまでじぶんの所属する塩賊グループにすら戻れないが、この心配はあとにしようと思う。
 ともかく居住区まで逃げれば、巡回がいるからおおっぴらに手を出せなくなる。さきほどコーヒーショップを破壊したとき目撃者はいなかったから、巡回に捕まる理由はとりあえずない。ないはずだ。

 というわけで、なんとしても居住区までたどりつくべく、ツェッペは人目を避けて行動していた。
 ここを乗り切れば、カイエに恩を売ることだって可能だ。そうすれば万が一エアジンが復活しなくても、かわりにカイエを戦力に引き入れることで地位を維持できるかもしれない。リーダーだって鬼ではない。悪魔だが。
 希望的観測が、ツェッペの足に力を与えてくれた。これならほんとうに、助かるかもしれない。
 すべては浅知恵、甘い見通しによる儚い幻だったのだが。

「よお、ツェッペりん。そんな急いでどこ行くんだよ」

 足がびくりと動きを止めた。
 たったひとこと声をかけられただけで、全身が石になったようだった。
「……っ」
 喉がからからになって、声が出ない。
 無言でふりあおいだ先、瓦礫の上に腰かけている男が、三白眼をすがめて凶悪に笑いかけてきた。
「返事ぐらいしろよ、おい。だれだそいつ?」
「よ、よう……アイク」
 アイク・フージェスティガー。
 塩賊『ホワイト・ヴェイグラント』のナンバー3。
 いまこの地上で、いちばんツェッペが消えて得するであろう男。
 考えうる最悪の事態が、さっさとおとずれてしまった。


 00M.

 狂犬アイク。

 あまりひねりの感じられないその通称が、アイク・フージェスティガーという男のすべてを表現しているといっても過言ではない。
 エアジンひとつで暴れただけのツェッペとちがい、やつの悪名は一朝一夕でつけられたものではなく、じわじわと積みあげられたもの。
 たとえばやつとケンカをしてみるとしよう。相手をした人間は、身体のパーツがちょっぴり欠ける。とりかえしのつかない傷をつけるのを好むのだ。手加減がないというより、相手に『しるし』を残すのがやつの流儀ということだ。

 ほんのわずかなところで、兇気の側に立っている男。

 その視線に、いまツェッペ・ホスシが晒されていた。
「どうした? お困りかい? なんならおれのとこ来っか? んー?」
 にこやかというより、なにやらギザギザしたという形容がふさわしい笑顔で、アイクは気安く声をかけてきた。だがこの態度に惑わされて指を食いちぎられた男と、目玉をくりぬかれた男をふたりずつ知っているツェッペはすこしも安心できず、
「いや遠慮しとく。いまはてめーにかまってるヒマはなくてな。悪いがほかをあたってくれや」
 アイクに対してはこのぐらいそっけないほうがいい。いいのだが、今回ばかりは逆効果だったようだ。
「その『お客さん』がそんなに大事か? ツラ見せてくれよ、どんな野郎だ」
 まずい。
 ツェッペがいま肩を貸しているカイエ・デュ・パルマは、わけあってかれらのグループ内では知られた顔だ。とくにアイクのやつが知らないわけはないのだった。
「ああ、ええと、こいつはやめといたほうがいい」
「ほお、やめといたほうがいいのか」
「いい、いい」
「じゃあ見せろ」
「いやほんとやめといたほうがいいって。病気なんだよ。皮膚がやべえことんなっててすっげえ顔だから。見たらメシ食えんくなるぜ」
 しまった。
「おお、見せろ!」
 瓦礫を降りてきてしまった。
 この男がそういう悪趣味なことに目がないことぐらい、わかっていたはずなのに……やはり焦っているのだと、ツェッペはようやく自覚した。
 これ以上隠す言いわけが思いうかばない。もうだめだ、とツェッペは観念した。
 そのときだった。

「……おまえ……」

 背負っていたカイエが、意識を混濁させたまま、言った。

「おまえの、狙いは、ほんとに、プルートオなのか」

 それはアイクの耳に届いてしまい──
 かれの動きが、ぴたりと停止する。
「あんてった……」
 狂犬が、つぶやく。
「プルートオ、つったかよ?」
 なんて間の悪い野郎なんだ。ツェッペはじぶんの血の気が引いていくのを感じていた。



 鹿娘ジェゼベルのイメージは、哀しそうに微笑すると、カイエに語った。
「そうですよ。最終目的はプルートオの破壊です。それはほんとうです、まちがいありません」
「最終目的『は』、それ『は』、か。ずいぶん含みがあるように響くのって気のせいかね」
 彼女はそれに答えずに、
「いまのわたしは、こちらに半身だけくいこんでいる『修羅』を経由して、やっとあなたのところにいられます。あなたをここに封じこめたのは、わたしの話をジャマの入らないかたちで聞いてもらうためです」
「だがあまり長くこの状態だと、現実のおれはたぶん死ぬぞ」
「それはだいじょうぶ」
 鹿娘があまりに力強く断言する。
「ツェッペくんががんばってくれています。そうかんたんには死にませんよ」
「むずかしく死ぬのもごめんだぞ。そもそも、あの小僧がアテになるってのか」
「なります」
 また断言だ。
「あの子は強くなります。きっと必ず強くなる。だから、おねがいがあります」
「おねがい?」
 カイエがいやな予感に襲われながらも、先を促す。
「『スカリーワグ』を、直してあげてくれませんか?」
「──なぜ」
「かれはきっとあなたの助けになるし、わたしはあなたもかれも助けたいからです」
 カイエは話にならない、と首を振り、
「それで、おれたちになにを期待してるんだ」
「あなたたちになら、黒猫が死んだあとのこの世界を、わたしは託せます」
「……どの世界だって?」
「ここです。この」
 かかとで、カイエの精神に構築された見えざる床をかつんと叩き、ジェゼベル嬢は言った。
「エアジンの生きる世界です」
 カイエはばつが悪そうに頭をかくと、
「いまいち、買いかぶられてるのかそうでないのかすらよくわからない話になってきたな。だいたいあんたは、いったいなんなんだ? ただのエクスペリじゃないな?」
「ただの、じゃないです。マイナスという意味で」
 胸元で組んだ手をゆっくりまっすぐ前方に伸ばしながら、イメージの彼女は、言った。
「うそをついていたんです。わたしは『修羅』のクルーじゃありません」
「ばかな、じゃあどうしてまがりなりにも、あいつのコントロールを──」
 そこまで言ったとき、カイエはひとつの可能性に思い至った。
 まさか。
 彼女はどこかへ移動したわけではなく。
 人間のクルーは、エアジンといっしょに格納されることはないが──
 その目的で開発された特殊な存在なら、あるいは。

「そうです。わたしのほんとうの名前は、555−95472」
 ジェゼベル嬢は──いや、その名を名乗っていただけのエクスペリは、自嘲するように、同時にどこか誇らしそうに、
「部品番号です。わたしは『修羅』の、さいごのパーツなんです」
 泣きそうに、そう笑ってみせた。


 00N.

 戦うことと生きることが同義という生きざまは、傍目には華々しく美しく映る。当事者が地獄を見ているほど、そうだ。
 だから、カイエはもちろんそのとき、鹿娘のイメージが涙をこらえた姿を見て、思った。

 ああ、きれいだな、と。

 精神空間はあくまで情報交換にしか使えない、不完全な現実だ。にもかかわらず、かれらは限定された情報だけで百万の交感をなしていた。
 思いこみだと、言わば言うがいい。
 それが人間だ。
 そうだ、人間なのだ。
 カイエはぎゅっと目を硬くつぶったあと、見開いて、そして、

「わかった、ジェゼベル」

 言い放った。

「──っ」
 涙と格闘していた鹿娘が絶句した瞬間、
「というわけでジェゼベルさん、ちょっと待ってくれ」
 カイエは休眠モードに入って降着していたじぶんのエアジンへ向きなおり、
「エアジン、リネームモード! 『ジェゼベル』のエアジンネームを抹消、今後『555−95472』通称『ファイヴ』の名で統一する! まあ慣れるまでちょっと時間はかかるだろうが、よろしく頼むぜ、相棒!」
 ヴ。
 銀色の鎧の、兜の奥の鈍い輝きが、かすかに応えたようにちらついた。
 そしてカイエはあらためて、あっけにとられていた彼女に向けて、宣言した。
「おれのエアジンの名は、これからのおまえの名になる。かわりに、おまえのかつての名前は、おれのエアジンがいただくぜ」
「え……っ、でも……だって」
「ここから救い出す。連れ出してやる。楽しみにするがいい」
「……だっ……って……!」
「おまえは盲いている。そう強いられてる。いいだろう、いい度胸だ。
 おれがかっぴらかせてやる。
 世の中はもっと、そんなふうにかんたんに他人に託すには、未練が残っちまうもんなんだってことを教えてやろう。
 目を開いたとき、おまえにはもっともっと目の眩むような現実が待っている。

 思い知れ。

 夢を視させられたまま、地獄を生きてる気分にさせられてるだけだってことを」
 カイエは、そこまで言いきった。
 いままさに地獄を生きている存在には、それはあまりに酷な宣戦布告だったろう。だが、しかし──
 この強引さが、カイエ・デュ・パルマなのだ。



 アイクの表情が急速に冷却され、氷点下に達する憎悪によって凍りついた。
「なあおい、いまそいつ、たしかに言ったよな? プルートオって? 『黒猫』プルートオのこったよな、なあよ?」
「い、言ったか? おれにはそうは聴こえなかったけどな。おまえのおならはほんとうにフルーティなのか? って言っただろ?」
「そいつの顔やっぱ見てえなおい。てーかさっきの皮膚病がどうのってうそだろ。おめえフカシこくときツラに出っからよ、すぐわかんのよ」
「スルーすんなよ! 死にたくなるだろ!」
 じりじりと、ひとりでありながら包囲をせばめるようにして、アイクはツェッペをゆっくり追いつめる。
 逃げたいが、逃げられない。それを許される状況でないことは、ツェッペにはいやというほどわかっていた。
「アイク、あとで相手してやるからいまはよせ。まじでいそがしいんだよ、な?」
「見りゃわかるさ。だからお困りなら助けてやるって言ってんだろ?」
 ああ怖い、とツェッペは背筋が凍るような錯覚をおぼえた。
 こいつはこういう、親切ぶっているときがいちばん怖い。大津波のまえの引き潮みたいなものだからだ。
 そして、やや気にかかることがあった。時間稼ぎもかねて、ツェッペは訊ねる。
「そ、それよりよ、そのプルートオとかいうのは、なんなんだよ? なんでそんなキレてんだ」
「キレちゃいねえさ。キレんのはこれからだよ、うふふっ……」
「こわ!」
 この男のばあい、不言かつ有言実行なのが手に負えない。ツェッペは『やばいおれ死ぬ。さよならおれの指か目玉かその他』と心のなかで泣きながら、
「なんでもねえならもう行くわ、それじゃさいなら」
 そそくさとカイエを背負ってその場を立ち去ろうとし、そして、
 一瞬のあいだに前方に立ちふさがったアイクの血走った目を間近にしながら、内臓に異様な感触をおぼえた。
「う?」
 ツェッペはまるで他人事のようにじぶんの腹部を見おろし、
 そこに狂犬の右手、ひとさし指が、爪が、深々とへそに挿しこまれているのを目撃する。
「あ、い、く……てめ……ぁ」
 ふたたび顔を見て、ツェッペは後悔する。
 血走っていながら、その中央にある黒い瞳はどこまでも暗黒のようで、
「なんか感触があるぜ、爪ひっかけて思いっきりひっぱったらどうなんのかな、これ? 試したことねかったんでよ、第一号、ここでいってみっかおい」
 まったく脈絡がないはずだ。
 いまここで、ツェッペに『しるし』をつけることを優先する意味はまったくなにひとつないはずなのだ。なぜなら、やつはいまプルートオについて知りたがっていて、そのためにはツェッペが連れている男がなにものなのか、とかいうことを訊くのが先決なのであり、だから、これはただの恫喝だと常識的には考えるべきで、
 そして、アイクはたぶんそういう常軌から逸脱しきっているからこそ、狂犬なのだ。
「──や」
 ツェッペが恐怖に屈服し、悲鳴をあげるのと、
 アイクが目の色を変え、そのまま指を思いきり曲げて引っ張るのと、

「うぎいいいいいあああああああああ!!」

 意識をとりもどしたカイエが、
「間一髪だったみたいだな、なんか知らんが」
 ツェッペに肩を借りたまま、いかなる方法によってか、アイクの右腕をこともなく切断したのとが、まったく同時に起こった。


 00O.

「うおおおおてっめええええええああああああうううぐ」
 ツェッペは、アイクが右手の切断面を押さえて苦しんでいる姿に脅威を感じながら、腹につっこまれた手首を注意深く引き抜いた。とてつもなく気持ちが悪かった。
 そして、肩を貸している男を見て、思った。
 とっさとはいえ、不自然だ。
 短いつきあいではあるが、カイエという男のお人好しかげんはあるていど把握した。これまでのかれの行動と、この攻撃は一致しない。面識のない相手の手首をいきなり斬りおとすというのは、無慈悲すぎる行為ではないか? おかげで助かったのは事実だが、これは異常なことだった。
 おそるおそる、引き抜いた手首に目を落とす。その切断面を見る。
 奇妙だった。断面からの出血が一切ない。脈動しているのだから、流れる道を失った血液はこぼれるはずなのに、それがない。
「ああ。誤解するな。これも奥の手のひとつだ」
 動けるようになったカイエはひとりで立ちあがり、ツェッペにいたずらを自慢するように笑ってみせると、パチンと指を鳴らした。
「こ、の、やろう、なにしやがった……!」
「おちつけ。おちついて苦しんでみろ。おまえのさっきの苦痛はあるべきものがそこになくなった違和感だけのはずだ。斬られた痛みはないはずだろう、なぜなら」
 カイエはアイクの手を指差して、
「さいしょから、腕は斬れていない」
「な……!?」
 アイクは右手をあらためて見ると、たしかに、そこにはもとどおり右手が存在していた。
 ツェッペはじぶんが見ている光景が信じられなくなって、目をこする。たちの悪い悪夢と趣味の悪い手品を同時に見せられた気分だった。
 そしてアイクも同様。完全にすきだらけだった。カイエはそれを見逃すことはない。
「よ!」
「っぐ」
 カイエにかかれば、狂犬もただの不良少年にすぎなかったようだ。背後から手刀をたたきこみ、一瞬で昏倒に陥らせる。
 あれほど恐怖を撒いていた男は、あっさりと地面に倒れた。
「逃げるぞ、少年」
「あ? お、おう」
 カイエが身を翻したので、なにがなんだかわからないまま、ツェッペはかれを追って走ることになった。

「なにから説明する?」
「まず、なんでこんなとこに逃げこんだのかってことからだろ」
 ツェッペは当然の疑問を口にし、カイエはあぐらをかいてうなずいた。
 あらためて、かれらは再度公園へ逃げのびた。地理的にはおなじところを行ったりきたりしている不毛な行為だが、時間経過というものがある。おなじ空間でも状況がまったく変わっている。
 巡回と塩賊の追っ手が縄張りの境界線で衝突して、そこには混乱が生まれていた。カイエとツェッペはなにくわぬ顔で避難客に混じり、巡回が外に気をとられているあいだ、待避所に潜りこんでひと息つくこととなった。情報が錯綜しすぎていて、まさか騒ぎをまきおこした張本人がこんなところにいるとは、ついぞ思ってもいないようだった。
「巡回もけっこうザルなんだな」
「もうすこし時間が経って応援が来れば、目がいきとどくようになってここも安全じゃなくなるだろうがね……ただ、エアジンのクルーの特定には時間と装備が必要だ。逃げる手はいくらでもある」
「じゃあつぎ。なにぼーっとしてやがったんだ。おかげであとちょっとではらわたひきずり出されるとこだ」
「交渉が長引いたのさ」
「だれと?」
「……さっきの手を斬った技について説明しないといけないよな」
 カイエは腕組みする。話をそらされた気がしたが、ツェッペはそちらも気になっていたので促した。
「エアジンの格納技術ってのはいろいろな派生技を産みだしていてな。といってもほとんどはおれの思いつきのオリジナルだ。まあ、実行できないのもたくさんあるが」
 せきばらいするように、カイエはつぶやいた。
「……正直こういうのを活用するほうが、戦うよりなにかとてっとりばやい」
 エアジンを戦わせることしか頭になかったツェッペには、理解できない意見だ。
「ではたねあかし。エアジンは呼び出される瞬間、空間に出現用のポケットをつくる。歪曲した空間はエアジンが出現したあとでもとどおりになるが、そのさい収斂した物質はもちろんエアジンに衝突することになる。だからあまりに大質量のものが動くばあい、ポケットの作成段階で自動的にキャンセルされる。危険だし、消費するエネルギーが膨大すぎるからだ」
 すでに理解できていないが、ツェッペはいちおううなずいた。
「ここで、極薄の、ナノメートル単位の薄板を出現させるとどうなる? そのさいに動く質量はわずかだから、物質と物質のあいだになにかをつくりだすのは容易なことだ」
「ええっと、つまり……」
「完全に出現させれば最悪に非人道的な刃物となるが、そうするとそのまま回収できなくなる。エクメネスフィアすら抵抗なしにぶったぎって、地面の底に落ちていってしまうからな。使ったおれ自身の身だってあぶない。だからあくまで安全装置はかけてあるが、その効果で、短時間なら『空間をつなげたまま離す』ことができる。手がなくなった錯覚であいつは苦しんでたが、現実には斬れてなかったから血流も阻害されなかったわけだ。で、キャンセルした時点でもとに戻った」
「なあ──」
 細かい理屈はわからない。
 ただ、ひっかかった。
 ツェッペはひとつだけ、ただひとつだけ、ものすごくいやな感じがして、訊ねた。
「その、呼び出すための『ナノメートルの薄板』ってのは、いったいいつどこで、仕込んだんだ?」
 カイエは答えない。
「あんた、じぶんで用意したのか? そのために?」
 カイエは、ゆっくりと、かぶりをふった。

「とっくにお察しだろうが──おれに仕掛けをほどこしたのは、ディートリックさ」



 瓦礫の上で、ひとりの男が覚醒した。
「あ、アイクさん、気がつ──」
 起こした手下の頭を反射的につかみ、起きあがりざまに頭突きで鼻をへし折った。
「へぶ」
 むしゃくしゃしているからだ。
「お、おいアイクの兄貴! やめろよ、いまそれどこじゃ」
 しゃべろうとしたもうひとりの顎を下からカチ上げた。舌のかけらが宙を舞った。
 むしゃくしゃしているからだ。
 アイク・フージェスティガーは、怒りに、震えていた。気絶させられる瞬間の怒りをノータイムで、意識と同時にとりもどした。
「……あの、あの野郎……! ツェッペ、それに……そうかよ、あのふたり、マジにつるみやがったのか、ちくしょお、へっへへ……」
 がじっ
 じぶんの右手首に鋭い歯を立てる。血がこぼれてもまったく意に介すことなく、いや、むしろその苦痛を確認するかのように、苦しみながら、苦しみを悦びながら、
「殺してやらあ……あのくそがきども、エアジンママに護られてぬくぬくしてるやつも、ディートリックの狗野郎も、両方とも始末してやる。見てろ、必ずだ! あのやろうどもおおおおあああああああああっ!!」
 瓦礫の上で叫んだそれは、ひとのことばを使ってはいたが、
 ケモノ、だった。


 00P.

 カイエ・デュ・パルマは思う。
 じぶんは、じつのところ、どの時点で決意していたのだろう。
 さまざまな事態が、かれをそうするべく流動してきていた。まるで生きもののように。情報に蝟集する『フロー』どもは、もしかしたら人間ひとりひとりの人生を操作し、ドラマティックに演出して、じぶんたちが退屈しないようにしているのではないか……そんな妄想すら抱くほど。
 だが、どうあろうと、カイエの人生はカイエのものでしかない。
 行動のときだ。行動しよう。
 手にしたままの帽子を握る力が、心なしか強まる。

 待避所を脱出し、ふたりはディートリックのセントラル・ビル、通称『ディー・タワー』を望む廃ビルの屋上にいた。
 フロー制御による無人スカウト・ドローンにさえ気をつければ、ひと晩ぐらいは越せる。
 そしてかれらは、夜が明けたら行動に出ることになる。
「『黒猫』は」
 ジェゼベル嬢が説明したことを、かれはツェッペにそのまま語った。
「かつてクルーを喪い、ディートリックに安置されていた。特殊処理によって固定された状態で、だ」
「なんでそんなやっかいなやつを、わざわざこっちに残しやがったんだよ?」
「表向きには、強力なエアジンのデータを収集するためだが……おそらくほんとうは、ちがう理由がある」
「だからその理由って」
「中核であるイグジストン、黒猫の存在中枢の芯になっている情報が、なくなったりいつか世に出たりしたら困るものだからだ。
 呼びかたが確定せず、偶然こっちに出てきた強力なエアジンには、よくあることさ。たとえばおれのジェ……おれのエアジンのイグジストンは、過去に偶然出現したデータにもとづいて書かれた制御式によって再現されているんだし」
「おれむずかしいことはさっぱりわかんねーけど」
 ツェッペは居住まいを正して、正面からカイエの目を見て言った。
「黒猫はじぶんの意志でディートリックを脱走してきたってことか? エアジンなのに?」
「自律行動のエアジンだ。というより、暴走させられているんだな。クルーがいないのにムリヤリこちらの世界に置きっぱなしになっているから、そうとうムリしてるってことだ。それで狂って野生化した……とかな?」
 カイエも推測の域を出ないため、奥歯にものがはさまったような言いかたしかできない。
「どうしてあのねーちゃんは、黒猫を破壊したいんだ」
「『修羅』がそれを望んでるからだ。まあ……」
 事情を完全に語るのは避けようと、目を泳がせる。
「くわしくは聞いてないが、まえの持ち主との義理みたいなもんらしい」
「まずはねーちゃんを見つけないとな。……それで、それからは? 合流したらカイエのあんちゃん、あんたはけっきょくどうすんだ……黒猫ぶっこわすのに協力するのか」
「あいつがこっちの世界に縛りつけられるのを、破壊してもといた場所に送り返す、と考えるなら、それが結論になるだろうさ。だがな」
「だがな?」
「……修羅も黒猫も、そしてジェゼベルのお嬢さんも助ける方法について、考えてきた」
「あるのかそんなの」
「ああ。どう考えてもこれしかない」
 カイエは、回答をしばらく舌の上でもてあそんでいたが、やがて言った。

「ディータワーに乗りこんで、あいつらを呪縛してるものを直接破壊する」

 ツェッペはしばらく、かれがなにを言ったのか理解できないようだった。
 サングラスが勝手に顔からずれたように感じたが、まあ気のせいだろう。
「……ひとつ聞かせてくんねーか、あんちゃん」
「なんだ」
「どうしてそこまですんの?」
「おまえはどうして、おれについてくる?」
「そりゃあ……生きのびるために、なりゆきで」
「おなじだ。おれも生きるため、なりゆきさ」
 まあ、ムチャな話だとは思う。
 相手は塩賊や特定企業とはわけがちがう。ディートリック機関だ。
 ディートリックを敵にするということは、エクメネスフィア全体を敵とすることに等しい。
『なりゆき』のひとことでかたづけては、とても戦う動機としてつりあうものではない。
 だが、しかし、しょうがない。
 ツェッペはしばらく考えたのち、つぶやいた。
「あんたの身体……つうか、脳みそをエアジン向けに改造したやつや、勝手にいろんな武器をつめこんだやつと、関係あることなんかよ」
 カイエは返答しなかった。それが答えそのものだった。
「そっか……」
 ツェッペはごろんと転がった。
 沈黙が降りた。
 モンストロ市を囲むエクメネスフィアの外に、いつになくみごとな夜空が広がっているのを、カイエは見た。
 人間が大気を感じられる瞬間というのは、こういうときだ。たとえば星が瞬くのは、大気のため。だがそういった知識のことではない。ふと、じぶんの意識だけが世界で活動しているような気分になる、静寂の瞬間。
 ひとりだからこそ、世界のすべてがそこにあると確信できるひととき。
 その静寂を破ったのは、カイエのほうからだった。
「なあ、青少年」
「あ?」
「おまえはエアジンなしで、この先、生きていけると思うか?」
 こんどはツェッペが黙りこむ番だった。かれも星をしばらく眺めて、そして、意を決した。
「おれさ、あんたに負けて目が醒めたんだ……いやちげーな、思わないようにしてたこと思えるようになったって感じだ」
 ほう、とカイエは片眉を上げた。
「エアジンって才能なんかじゃねえんだよな。武器がない国でたまたま拳銃拾うのって、才能じゃねえよ。おれずーっと、まあいっかって思いながら暴れさせてたんだよ、『スカリーワグ』。
 使ってない。ふりまわされてるだけだ。べつに暴れてえわけじゃねーもんよ。
 でもいまなにもなくなって、あんたについてって、エアジンを使いこなしてるっていうか……ちゃんとエアジンが役に立ってる男がいて、すげーなあって」
 さあ困ったぞ、とカイエは思った。
 どうやら、ツェッペ・ホスシという少年に対する認識を改めなければならないようだ。

「青少年」
「かっこいいツェッペさまだ」
「かっこいいツェッペさま」
「そのまんま言うな!」
 少年が照れた隙をついて、カイエは、言った。

「おれの『格納庫』にはエアジンの修理機構も装備されてる」

 さあ。
 おまえの割り切った気持ちを、もういちどゆさぶってやる。行くか戻るか。
 選べ。

「ディートリック潜入に協力するなら、『スカリーワグ』を直してやろう」


 00Q.

 サイレンが響きわたる。

 カイエにとって僥倖だったとすれば──あるいは不運だったとしたら、侵入そのものは予定よりずいぶん早く、楽に成功しているという事実と、その理由だ。エアジンでの攻撃に耐えうる物理的防壁が、なにものかの破壊によって、すでに大部分とりはらわれていた。
 かわりに配置されたのは、かれの予期したもっともやっかいな障害──人間。
 もちろん物理的には、紙よりたやすく突破できる。突破だけなら。
 殺戮せずに、というのがむずかしい。
 カイエとて、事前情報を入手していなかったわけではない。まったくない。
 だがディートリックの内部についてまで、一朝一夕で全容を得ることなど不可能だ。
 そう。すなわち。かれには知るよしもないことだった。
 ディートリック機関のモンストロ市における中枢である『ディータワー』が、半日ほどまえに黒衣の少女『ドウター・オブ・メイヘム』によって蹂躙されたことなど。

 カイエは単身、エアジンのパーツを器用に出現させ、その力を借りながら弾丸を弾き、姿を隠し、ディータワーに斬りこんでいく。そして、思う。

 ツェッペ・ホスシという男のことを。



 返事は、かんたん極まりなかった。
「おれはもう、決めてんだ。おれにエアジンが戻ろうと戻るまいと、死にに行くことになろうと、あんたについてく。それがいま、大事なことだって思うから。だいたいあのねーちゃんのこともよくわかってねえのに、途中で放り出されたら気になって眠れねえよ」
「そうか」
「だからよ、ひとつ頼みがあるんだけどさ、聞いてくれ」
「……ああ」
「おれにもあの便利な空間カッターくれよ」
「やめておけ。精神をやられるぞ」
「なんでだよ? あんただって」
「おれは改造と訓練によって、エアジンの身体の一部や、その延長として認識できる武器のたぐいでないものを長時間『呑んで』いられるだけだ。多彩な小道具をしまっていられるのは、そういう反則を使っているからだ。常人……と言ったらおかしいが、自然に生まれただけのエアジン・クルーがおなじことをすれば、拒否反応でエアジンともどもまともでいられなくなる」
「そっかよ……残念だけど、あきらめるか」
「それがいい。よし、時間があまりない。突貫修理をはじめる」

 意識をチャンネルさせて、他人が格納しているエリアをじぶんの倉庫と重ね、そして修理作業を肩代わりする。
 イグジストンについた傷は単体では直すことが不可能と言っていい。だが、他のイグジストンと共鳴させると、そちらの形状にいったんひっぱられることで、修復されていく。
 つまり、特殊な精神工房でなければ、一般クルーではどうにもならないダメージも、エアジンを複数格納しているカイエなら、応急修理が可能となるのだ。

「しっかり、きちんと……使えるように……直し、て、くれよ」
「それはもう、完璧な応急処置を期待しておけ」
 カイエは、いつになくやさしい表情になっているじぶんに気づいていた。
 皮肉なことだと思いながら、
「そうだな、うう、なんか眠てえ」
「作業の影響でしばらく眠くなるはずだ。回復も兼ねてしっかり休んでくれ」
「しばらく……? しばら、くって、いつまでだ」
 ツェッペがすこしだけ目を見開いた。
 カイエは、皮肉さを感じたまま、無言でしばらくその質問を受け止めていた。
 少年が、寝息を立ててしまうと、かれはやっと返答した。

「すくなくとも、すべてが終わったあとまではぐっすりのはずだ」

 カイエには理由と因縁がある。
 鹿の娘にも決意と契約がある。
 少年には、なにもない。
 連れて行くようなわけにはいかなかった。
 ただ、ひとつだけたしかめたかったのだ──かれの魂の色を。
「おまえの『スカリーワグ』は以前よりも確実に調子がよくなっているはずだ。そのぐらいにはチューンした。それでも、目覚めてから使いこなせるかどうかは、おまえ次第だがな」
 相手は眠っているので、もちろん答えない。
 だからこそ、カイエは続けた。
「いまおまえにとってなにが大事かは、おまえ自身が決めちゃいけないんだ……一見すれば、『決めろ』ということばはおまえさんの自由意志を尊重したすばらしい提案かもしれない。だがな。相手がじぶんをどう思っているかを考慮したうえで、勝算あって選択肢をちらつかせるような質問には、誘導されてはならないんだ」
 それは必ず、相手を思いどおりにしたいときにだけ発せられる甘い罠だからだ。それはときに、命じた側の人間すらすらあざむく。
 だから、カイエはうそをついた。
 無意識のうそで縛るかわり、意図と意義に満ちた虚言によって──
 ツェッペは、ここへ置いていく。



 階段を蹴立てて、上層へと強引に侵攻する。そろそろあちらも、じぶんの正体に気づいているはずだ。
 前方にさらに兵士が立ちふさがった。
 こう数がそろってくると、とカイエは思わざるをえない。
 感覚がマヒしてきそうだ。
 ただの肉の塊、量産型のように感じられてきて、いずれこの感覚は、なぎ倒せばすっきりするのに、という暴力の衝動に成長しそうだ。悪いことに、その状態になるのは時間の問題に思われた。
 だから、カイエはあることを祈っていた。
 銃撃は途切れ途切れとなり、かれのまえから兵士が姿を消した。そして──
 なにものかが通路の先に、一見無防備にたたずんでいた。どうやら祈りが通じたらしい。
 がきん! と、カイエのエアジンがなにかを弾いた。
 腕に、いやな種類の痺れが走った。それは同種の力の感触にほかならなかった。
「……ディートリックの客分のエアジンクルー、だな」
 待って、ました。こうでなきゃいけない。
 正義の味方と、悪の手先は、一騎打ちを所望するものだ。


 00R.

「死は生と分かてない。
 死なくして生はないからだ。
 不幸なくして幸福はありえない。

 そんなのはウソだ。なにもかも。

 絶対の死は存在する。
 完全なる幸福は不滅だ。

 そこにたどりつくために、狂気を経なければならないだけだ。狂気という真理のみが、理性の相対性を駆逐できる……できるのだ」


 ……なぜ、いまなんだ、とカイエは思った。
 なぜいま、思いだす。
 粉塵がたちこめるなか、おぼろに前に立つ敵が──おなじエアジンクルーだからか?
「なにを惚けてる、デュ・パルマ」
 敵が、言った。
「ここはエアジンを自在に出せる空間ではない。たしかにない。だからといって忘れるなよ」
 まっすぐに大質量が、カイエの眼前までほとばしるように滑ってきた。
 だがカイエは受け止めた。みずからのエアジンの腕が、力強く出現して、敵の豪腕を真正面からガードした。
 パワーは五分か、わずかにカイエが有利。
 
「……われわれは、こいつらを自在に操るために産まれたのだぞ?」

 男の顔が、だんだんとクリアに見えてくる。
 見るまでもなかった。カイエがその声を忘れるはずはないのだ。
「ひさしぶりじゃねえか。こんなところにいたとはな。ホイジンガ」
 顔の半面を傷で埋めた、筋肉質のクルーが立っていた。いたが、いない。
 まばたきよりもわずかな時間が経過し、
 傷を帯びた顔が眼前に出現した。エアジンを出すひまもないまま、カイエは鉄拳でふきとばされた。



 ツェッペ・ホスシは眠りのなかにいた。目醒めなくてはならない。そう思うのだが、身体が、意識がいうことをきいてくれない。
 なぜ起きなければならないのかが思いだせない。思いだせば起きられるのか? わからない。ならば、どうでもいいではないか。眠っていればいいではないか、と、こだまする声がより深い眠りへひきずりこもうとする。
 しかし、どこからか、異なる声が……いや、音か……光が、導くように、ツェッペの意思を包む。
 だれだか、なぜか、知っている気がする。

「……う」

 目を醒ました瞬間、かれはじぶんがビルの屋上に寝かされていることより先に、
 じぶんの眼球のほんの先に、ナイフの切っ先が迫ってきていることを知覚した。
「おわ!!」
 身を転がしてかわす。なにが起こったのかわかる。わかっている。
 かれはずっと、背後にそいつのプレッシャーを受けながら生きてきた。塩賊のナンバーツーとして、生きてきたのだ。
 そのままの勢いで立ちあがり、距離をとる。
「急なごあいさつじゃんか、狂犬」
「死ねよおい、おまえ。死ねよそうすればおれが安眠とさわやかな朝を楽しめるから死ねよ。死ねよおれに都合いいように死ねよ。死ねよおれを満足させるために死ねよ。死ねよおれの未来の栄光つかむのと過去の屈辱晴らすのと現在のぶっ殺したいってこの行き場のねえ衝動をおさめる役にいっぺんに立てるんだぜ死ねよ死ねよ死ねよおいツェッペえええええええええ」
 ナイフが縦横から、視界のギリギリ外からしなってくるように襲いかかる。
 ツェッペはあやういところでかわしきった。腕や頬に、鋭く赤い筋がいくつか浮かぶ。
 アイク・フージェスティガーはいつもどおり狂っていた。だが、いつもどおりの狂いかたではない。なにかがちがっている。
「死ねよもうてめえよおおおおおおおギリギリギリギリギリギリギリ」
 なんかいやなことでもあったんだろうか。
「いまつきあってるヒマないんだよ、なんかさっきもそう言った気がすっけどよ」
「死ねよ!」
 聞く耳持っていないようで、さらにナイフの動きが速くなる。

 ──あれ?

 ツェッペは異状を認識した。なにがいつもの狂いかたとちがうか、それを理解した。
 今回のアイクは相手にしるしをつけるのが目的ではなく、殺そうとしている。だからそのぶん、狙ってくるところが明確で、ツェッペの勝負勘でもなんとかなるのだ。
 ほんとうはエアジンを呼びたいが、おそらくここで呼んでしまったら、
「あの男助けに行くんだよ、どいてくれよ」
 耳を削られたとき、伸びきった腕をかつぐように捉えて、
 そのまま身を翻し、全体重をかけた。
 目的が明確な攻撃なら、ツェッペのほうに一日の長あり。
 遠慮なく屋上にたたきつけ、右腕を肩からへし折った。手を離れたナイフが転がって屋上から飛びだし、夜の闇に吸いこまれていく。
「ま・た・右腕がああああああああああああおおおおおおおおめええええっ」
 ツェッペは、しまった、と思う。
 まっとうに戦闘能力を奪おうとするような愚を犯すとは、この男を相手に。
 痛みどころか、ダメージを負い武器を落とした事実がそもそもないような動きで、左手がツェッペののどをつかむ。とてつもない怪力で、首の一部をちぎりとらんばかりに握る。純粋な暴力。本来の力を発揮した爪が、めりめりと喉にくいこんでくる。
「があっ……かっ!」
 ツェッペが激痛とともに、呼吸の自由を奪われる。
 アイクは、その左手の力を無制限に高めていくかのように思えた。しかも、そのまま、口を利いた。
「死ねって。だれ助けるとか言っちゃってんだおめー? だれ助けんだって? なんのために? やつはイヌっころだぜ? あいつがエアジンたくさん運べるのは知ってんだろ? なんでそんな力があるのか考えたこたねーのか? 考えるアタマもねーなら死ねよもー、なあ」
「が……ぐ……な……」
 アイクがなにを言っているのか、それどころではないはずの状態だが、ツェッペは気にかかった。苦しみながらも、やつが紡ぐ呪詛のようなひとことが、直接脳髄に刺さった。
「あいつはよ、あの野郎はよお。ディートリックの手先なんだぜ? キュリオもモンストロも破壊する──紛争煽るための、二市両用の、運び屋てやつだ。おれやおめーの家族殺したのも、あいつがクルー候補にばらまいたエアジンさ。てめーのおめでたさがわかったら死ねよ」
 ツェッペの目が見開かれたのは、苦痛の限界を超えたからでは──なかった。


 00S.

「おれたちは」
 と。
 カイエが『ホイジンガ』と呼んだエアジンクルーは、あくまでそう言う。
 じぶんとカイエは、おなじ種類だと。
「おれたちはあくまで、そうだろうが。おれたちが暴れることは、すべてディートリックの栄華につながる。おまえがポータルをくぐりぬけて配りまわったエアジンも、おれがここでおまえと戦うことも、どれもこれもがやつらに転がりこんでいくしくみになってやがる。生まれた瞬間から、育てられた過程で、死ぬまでの帰結まで、終わってからの事後ですら」
「……そう、だな」
 殴られたカイエは切れた口許を押さえて立ちあがり、ホイジンガの言ったことを認めた。しぶしぶと。
「おれがやっていることはどうあろうとディートリックの利益になる。
 なにをあがこうが、どれくらい逃れようと努力しようが、そこは曲げられない」
 ホイジンガはその回答に満足げにうなずくと、
「だからわかれよ、デュ・パルマ、おれたちが敵対する必要がどこにある?」
 なんだ、なるほど、とカイエが思った。
 懐柔策に出るつもりのようだ。
 カイエには、わかりきっている。この男がカイエを味方に引き入れたがる道理など、ない。
 たった一合ほど刃をまじえただけで、彼我の戦力差を悟ったのだ。
 つまり──この勝負、勝てる。
 確信したカイエは、みずからの胸に手を当て、高らかに答えた。
「ここにある」
「……?」
「おれとおまえが敵になる理由は、ここに不動だ、ホイジンガ」
 ホイジンガの表情の、傷のない箇所が、みるみる蒼ざめていった。
「おまえは心ですでにおれに負けている。戦わないテはない。
 そして、だれの思いどおりになるのが癪だとか、そんな理由で目の前のなにかを看すごせるようになってしまったおまえとは、おれは相容れようがない。たとえが立派になりすぎるかもしれないが──親が子にどうなってほしいと思ってようが、それに逆らったり従ったりするだけの人生なんて、なんになる? そろそろおっかさんから離れていい時期じゃないのか?」
「……きっ、さ、まああ……!」
 蒼から赤へと変じた顔で、ホイジンガは怒りの感情をあらわにした。
 かなりプライドを傷つけられたようだ。
 目的どおりだといえるだろう。
 そうだ。肝心なのは目的を見失わないことだ。はじめの気持ちを。
 だから、カイエは目を閉じる。
 はじめの想いを、忘れないために。
「ふざっけるなっ」
 ホイジンガのエアジンの腕がまっすぐ刺突してきた。さきほどよりスピードは上だ。カイエもエアジンの剣を抜きはらい、裂帛の気合とともに斬りつけた。だが剣の腹を押され、はじきとばされる。取り落とした剣が廊下を滑っていく。
 速さだけを重視した反撃であったため、重さが足りなかったのだ。
 身体のすぐ横を、烈風が引き裂いていく。いまの貫き手は狙いをそらすことができたが、つぎはこうはいくまい。
「ち!」
「そんなに死にたいなら、死に急ぐなら、ここでくたばれっ」
 かんしゃくを起こしたホイジンガは、よけいな計算をしなくなったぶんだけ思い切った動きができるようになっている。すこしはマシな相手となった。
 閉鎖された通路で、片腕だけを呼びだすのがやっとのふたりが、腕だけで戦う。
「どっ!」
「やっ!」
「……歯がゆいな。ホイジンガ。楽しいよな」
「なにを言っている」
「おれたちが真価を発揮できない空間で、工夫を凝らしてやりあうってのは、楽しいことだよな」
「わからんな! 全力でぶつけあえる戦いにしくはないだろうが!」
「おなじところへ昇っていく高さを求める戦いには、早々と限界がおとずれる。だが、制限された戦いには限りがない。あるかもしれないが、広さと深さ、そのふたつの組み合わせ、掘り進んでいく方向、ふたつのちがう掘りかたが勝負によって噛みあう瞬間の化学反応めいた劇的さ、とてもじゃないが人間には究めきれない。ルールにのっとったゲームが廃れないのはそのためだ。力自慢がふるう暴力にはこの醍醐味はないからな」
「なにを言っているんだ」
「時間稼ぎさ」
「!?」
 どかっ。
 拾っていた剣が、ホイジンガのエアジンの手を壁面にぬいつけた。
「そら!」
 ダッシュしたカイエが、さきほどの不意打ちのおかえしとばかり、ホイジンガのボディに鋭いミドル・キックをかけた。
「ぐおっ」
 エアジンの操作に気をとられると、クルーは格闘するどころではなくなる。よって相手の防御をこじ開けた瞬間の直接攻撃が有効だった。閉鎖空間をうまく利用した戦法といえるかもしれないが、やつは墓穴を掘ったのだ。
 格闘戦でも、カイエのほうが練度は上だ。
 カイエにとってのはじめの気持ちとは、まちがっても、『ディートリックの思いどおりになりたくない』ではない。だれの利益になるかではない。最終的にそれがさらなる災禍を呼ぶことになろうとも、それはまたべつの問題だ。そんなことを理由にして、いま行動を起こさないことなどできない。これはカイエの、ひらきなおりだ。
 おのれの正義を貫ければ、それでいい。



「……それでいいんだよ、ばかやろー」
 喉を握りつぶされかけているから、ことばにはなっていないだろう。アイクはもちろん、聞いていないだろう。
 だが、ツェッペは言わずにいられなかった。
「っおーおっ!」
 咆哮し、後頭部をアイクの顎に叩きつけた。2回、3回と。
 もちろん効かない。そのぐらいでは、やつの手は離れない。メリメリという音が頭のなかで反響するかのように、さらに握力が増してきた。
 だが、ツェッペは怒っていた。激烈に怒っていた。
 こいつを倒すのに、エアジンは必要ない。
 羽交い絞めにされているが、腕は自由だ。手が伸びるところにあった、相手の肘関節をひたすら狙った。
 アイクはまったく力をゆるめない。まるで、筋肉によって動いていないかのようだ。
 呼吸が。
 限界に達する。
 頭の奥でスパークするような感覚が駆け抜ける。酸素を送られない脳細胞が死んでいっているのか? いや、これは──
 やつの力が、突然消えた。
 ツェッペは必死で身を離し、距離をとって振り向いた。アイクの身にいったいなにが起こったのかを見て、
 そこにあったのは、じぶんがまだ、やつに捕らえられている姿だった。
「なんてこった」


 00T.

 なんてこった、意識が外に抜け出たらしい。
 臨死体験などというものを信じてはいなかったが、現実に起こっている以上どうしようもあるまい。死に瀕して、エアジンの未知の機能が発動した──などということもあるまい。エアジンそのものは、あくまで戦闘用の巨人メカニズム。それじたいが特殊能力を秘めているわけではないのだ。
 認めなければなるまい──
 すなわち、ツェッペは、まもなく死ぬ。
 あわてて身体に戻ろうとするが、動かない。意識がいうことをきかない。
 逆に、あとずさりを試みる。とてもスムーズに、一歩離れた。
『もっと身体から離れよう』という欲求は高まるいっぽうで、それに従うことはおそろしく甘美だった。それを認識して、いやに冷静に『ああ、これはいよいよほんとに死ぬんだ、おれ』などと考えているのんきなじぶんに驚く。
 冷静ついでに、客観的にじぶんたちの姿を見ると、これはまぬけな光景だ。
 驚きだ。絞め殺されかかっていると、相手の股間ががらあきなことにすら気づけない。
 だが、さらに驚いたことは、
 ぬけがらのはずのツェッペの肉体が、動いたことだ。
(!?)
 第三者の視点で、ツェッペはじぶんがアイクの急所を蹴りあげた姿を見、
「おふっ」
 これにはさすがに力をゆるめざるを得なかったアイクの左手を、一瞬だけ上回る信じられない膂力を発揮し、ひきはがす。その姿を客観的に目撃した。
「こおおんのりゃーっ!」
「でえ!!」
 アイクは投げ飛ばされ、逆さまになって、屋上に積まれていた板切れに激突した。
 が、ダメージを感じさせないような動きで立ちあがり、
「なんだてめえ!?」
 ツェッペにはもちろん、答えている余力はなかった。意識が肉体に戻った瞬間、すさまじい苦痛が襲ってきたからだ。
 激しく咳きこみ、涙を流しながら空気をむさぼる。ちぎられかけた喉頚が焼けるように熱い。
「げっげほっ、ぐ……!」
「火事場のなんとかってやつかよ、妙に頑丈なとこ見せやがって。苦しむ時間が延びて後悔するってのによ」
 アイクが、なぜここまでじぶんを憎悪するのか、ツェッペにはわかるようでわからずにいた。だが、いまは、
「それどころじゃ……ないんでね」
 勝つ。こんなところで、こんな相手にてこずっているばあいではないのだ。



 傷の男、ホイジンガは、とうとう力尽きた。廊下の角によりかかるようにして倒れ、カイエに言う。
「……おまえは特殊技術でエアジンを複数格納できるようにされた。かなりの負荷が常時かかってるはずだ。ふつうのクルーよりも寿命はさらに短いだろうが……それでもやるのか」
「ああ、やるとも」
「末路は悲惨だぞ」
「過程も悲惨かもな」
「それでも、やるのか!」
 ホイジンガはさっきまで敵だった、いや、いまでも敵であるはずのカイエを案じるかのように言ったが、カイエにはわかっていた。
 他人ごとじゃないのだ。それだけのことだ。
 だから、カイエは答えた。
「言ったろう? 壊すってのはあんまり好きじゃないんだ。与えられたルールのなかで術策を弄するほうが性に合っている──その行為に直接的な正義があれば、なおさらだ」
「なんて野郎だ……!」
 立ちあがろうとするが、その力も残っていないようだった。
「おれは認めんぞ、おまえのようなやつは……」
「やつは?」
「力尽きることすらまっとうできずに、背中から撃たれて、死んでしまえ」
 そう言って、気絶した。
 確実に気絶したことを確信して、カイエはちいさな声で、

「もう、撃たれたさ」

 そうつぶやいて、先へ進もうとする。
 それにしても、とカイエはいまさら思う。エアジンクルーはホイジンガしかいないのか。これで打ち止めとでもいうのだろうか。カイエの『格納庫』に侵入しようとした敵は、かれではないはずだった。
 カイエは大きく息を吸いこんで、
「おい! カルジェン! 観てるんだろ!? いま、この場は、あんたとおれのホットラインだ」
 個室でこの一部始終を観察しているであろう統帥官へ向けて、叫んだ。
「これ以上の消耗戦は慎もうじゃないか。あんたらもおれを野放しにしておいたほうがいいんだろう!? まだまだデータが取りたいもんな!」
 そうだ。
 希少なエクスペリの成功作として、最低限の禁則しか与えられていないかわり、かれは常にディートリックの監視下にある。
 鹿娘の禁則に反応したのも、
 正面から堂々と乗りこむしかなかったのも、
 本気で排除する動きがなさすぎるのも、
 すべてはかれを惜しむ意思が介在するがゆえ。
「わかっているさ。鹿耳のエクスペリと『黒猫』がこっちの世界に残っていることが、おれを殺して割に合うかどうか検討中なんだろう?」
 そこまで言って、カイエは沈黙した。
 さきほどまでエアジンの腕がぶつかりあっていた空間が、痛いほどの静謐に閉ざされた。
 その静けさを破ったのは、
『……エアジンはまた呼べばすむ。ミュール・エクスペリはきさま以外に成功例がない』
 カルジェンティン・シダルタンの苦渋に満ちた告白だ。
「じゃあ、これ以上の抵抗をやめさせてくれ。公式に頼むわけにはいかないが、盗まれたことにすれば面子も立つだろう?」
 またも、沈黙。ややあって、カルジェン統帥官の声が重々しく答えた。
『そうも、いかんのだ。きさまも気づいているはずだ。黒猫の脱走は意図的なものではない』
 カイエは眉をひそめた。
『やつが出現したのだ。ドウターが。騒乱の息女が』
 頭がまっしろになった。
 どこかでおれを笑っているやつが、いる。そうカイエはいちど感じたはずだった。
 あのとき気づくべきだった。気づくべきだったのだ。
「……ほう」
 ぎらぎらとした凶暴な笑顔で、カイエはいっそ無機質というほどの吐息をもらす。

 ──聞いたか? ジェゼベル
 おまえのばか娘が、元気にやってるってよ。


 00U.

 ひとつに、名前。
 もうひとつに、天才だったこと。それも、ワールドグルーヴ後の世界における、おそらく最高にして、最悪の。
 かつてジェゼベルと呼ばれていたその女について、そのふたつ以外のことを知っているのは、カイエだけだった。

 ディートリック機関の記録ファイルには、味気ないひとつの情報としてしか存在していないだろう。
 ドクター・ジェイン・イゼベッル・ビノシュ、機関に対し叛乱ならびに研究成果の機関外持ち出しを企て、塩海にて射殺。死体は発見されていない。動機はいまだ不明。
 不明。
 天才かいぶつの考えることなど、わかりはしない。

 なにか余人のあずかり知らぬ深遠な洞察のもとに、あの天才は今回の暴挙に及んだのだろう、という信仰めいた思考停止が、機関の最終見解だった。
 じつのところ、彼女の叛乱はとほうもなくささやかな、あたりまえの望みのためだった。みずからのつくりだしたちいさな世界を保つだけの、とてつもなく近視眼的、短絡的な。
 みずからのつくりだした、ささやかな。

 広大無辺にささやかな!

 プロジェクト、メソッズ・オブ・メイヘム。
 M.O.M.システムはドクター・ジェゼベルの最大の成果だった。
 先天性エアジンクルーの召還能力を暴走させて、『ちがうもの』を呼べるように改良された少女は、みっつの『ガンウィスプ』を自在にコントロールすることができる。フローでつくられた光球に、エアジンを制御している半自律型の『意識』のみをダウンロードする。これによってエアジンの巨大さやエネルギーの消耗という弱点を完全に克服し、長時間戦闘と隠密行動の両立を可能とする。
 V.N.──ヴィーニイは完璧なる足であり翼。
 V.D.──ヴィーディは完璧なる目であり耳。
 V.C.──ヴィーキイは完璧なる鉾であり楯。
 三種類の特性を与えられたガンウィスプは、外界から完璧に主を保護し、補佐し、……捕縛する。その生涯に、ディートリックの戦闘奴隷として、掣肘をかけつづける。
 ジェゼベルは、クルーの資質を見出されたみずからの受精卵を被検体とし、プロジェクトを順調に遂行していた。
 ある日、そのことが仇となるまで。
『貴重な彼女の研究対象』はジェゼベルの体内ですこやかにはぐくまれてゆくうち、『かけがえのない彼女のちいさな命』へと変貌した。
 彼女はみずから志願したプロジェクトを非人道的であると断じ、ディートリック機関が要求するすべてを拒み、そしてもてる天才性のすべてを駆使して、機関を敵にまわし一歩も退かず戦った。
 そのかたわらで、彼女のために剣をとった人物……
 そして、彼女にトカゲのしっぽのように切り捨てられた人物がいた。
 ミュールとして生涯を閉じるはずだった名もないエクスペリ。

 愛していなかったと言ったらうそになる。
 愛していたと言ったら、表現として足りない。
 おそらく、彼女はドウターだけでなく、かれに『人生』をプレゼントしたのだ。
 たとえ、みずからの目的のためだけだったとしても。
 カイエ・デュ・パルマは、彼女へのあくなき憎悪と敬意と、ふたつながらを墓場まで抱えて生きると決めて、みずからのエアジンにその名を与えた。



「……納得できる話になってきた」
 黒猫、プルートオを解き放った犯人は、生まれつき放浪と逃亡と暴走を宿命づけられた、ジェゼベルの落とし子。
 黒猫の破壊を目的としたエクスペリの娘が、図ったようにモンストロ市に侵入できた、このタイミングで。
 敵は見えてきた──事件の全容もあきらかになってきた。
「統帥官閣下。どうやらおれには、事件について話せることがかなりある」
『なんだと』
「ここだけの話にしたい。直接会話のテーブルを用意してもらえないか」
 沈黙が降りた。
 ややあって、決然とした統帥官のひとことが、静けさに支配されている通路に、
『わかった。いいだろう』
 なぜか寒々しく響いた。

 用意された席は、ひとつのテーブルに阻まれただけのつつましやかな一室だった。カルジェンティン・シダルタンは、恰幅よいがそれなりに鍛えられている体躯をダブルのスーツに包み、カイエのまえに現れた。たったひとり、それなりの威風を感じさせる登場だ。
 もちろん、カイエにはかれをどうこうすることはできない。『最低限の禁則処理だけを与えられあとは自由』ということは、最低限度を超えて手出しができない相手もいるという意味でもある。
 眼前のカルジェンがその貴重なひとりだ。
「さて、聞かせてもらおうか」
「そのまえに、こちらも聞かせてほしいことがあるんだ。『黒猫』をこっちに置いていた理由はなんだ?」
「あれに使用されている技術が特異だからだ。あれ1体を研究するだけで、ディートリックの開発が10年早まると試算されている」
「そんなに生き急いでなんになるんだ、現人類社会最強の組織が」
 ふ、とカルジェンはつまらないことを訊かれたように笑っただけだった。
 カイエはその表情にわずかに親しみを感じたが、
「まあいいさ。その貪欲さが首を絞めることにならんといいな。もう遅いかもしれんが」
 と切って捨て、話を継いだ。
「今回の件にはジェゼベルがからんでる。倒さないとならない」
「ばかな! やつは──」
 死んだはずだ、と続けることがいかに愚かしいことか、カルジェンにもよくわかっているらしく、そこまで言って押し黙った。
 カイエもあえて言わなかったことがある。ジェゼベルはほんとうに死んでいて、今回の事件は彼女の遺志を継ぐ存在による企てであるという可能性だ。
 むしろ、そのほうが自然なほどだ。
 カイエはジェゼベルの死をいちおう見ているし、そして、もし生きているならジェゼベルが娘を作戦に使うのは不自然なことだ。
 異質な化け物としか認識していない人間には、そんなあたりまえのことすらわかりはしない。
 だが、そんなことを口にする義理は、ないのだった。


 00V.

 廃ビルにおける戦いは、佳境に突入していた。
 アイク・フージェスティガーの野獣ぶりは、ツェッペもよく知っている。人間の意識の外からいきなり襲ってくる男。本能的に『どうすれば相手がすくんでくれるか』を嗅ぎとる術に長けているのだ。
 ツェッペ・ホスシは冷静さをとりもどしてきた。野獣に本能で対抗してもしかたない。人間には人間なりの戦いかたがあるのだ。
 深呼吸して、切りだした。
「……おまえとはずいぶん長いこと、おなじ塩賊でやってきたけどなあ」
「先輩面してんじゃねえええええええよ」
「しないさ。たしかにホワイトヴェイグラントじゃ、おれのほうが長いけどな。人生の長さも、塩賊としてのキャリアもアイクのほうがぜんぜん上だ」
「おだてて見逃してもらおうってつもりかよ?」
「おだてたように聞こえたのか?」
 ツェッペは最大限、挑発的に言ってみた。
「狂犬は脳みそまで悪玉フローまみれらしいな」
 アイクの目がすうっと細くなった。
「マジ死にてえらしいな」
「……」
 やはりだ。どうもおかしい、とツェッペはいぶかしむ。
 やつはさっきまで、じぶんを本気で殺そうとしていたはずだ。
 いまさらつまらない恫喝の必要などないはずだ。
「アイク、おまえさあ」
 ツェッペはサングラスをかけなおして、あらためて調子を戻す。
「ここをどうやってつきとめたんだ? だれの差し金でおれたちを狙ってる?」
「なにをわけのわか」
「とぼけんなっ」
 ツェッペは恐怖でくじけそうになる強気を維持しつつ、言いつのった。
「おれを殺したらカイエの居場所がわかんなくなるってことに気づいてから、すっかり手が控えめになってる。こんな会話で攻めが途切れる時点で、いつものおまえじゃない」
「……けっ」
「プルートオってエアジンは、おまえにとって、なんなんだ?」
 アイクが完全に沈黙した。
 思えば、ずっと気になっていたのだ。カイエがプルートオの名を口にしてからの変化。いつもどおりの狂気はちがいないが、それがなりをひそめる瞬間が長い。本能よりも優先すべきなにかが、今回にかぎっては、アイクに多少なりともブレーキをかけているのだ。
 その正体は、いったいなにか?
「るっせええええええ!!」
 飛びかかってきた。
 この男から聞きだすのは、どう考えても容易なことではないのだった。



 ディータワーに人知れず存在する一室で、カイエとカルジェンの密談は続く。
「ジェゼベルを、その娘を、討てるのか」
「おれはあいつに裏切られた。いまさらなにをためらうこともないだろう?」
「わからんさ。男と女だ」
 せせらわらうように下世話なことを口走ったカルジェンに対して、衝動的な殺意が起こった。
 だが、まだ。
 まだだ。
 カイエはおのれに言い聞かせると、
「あんたのやろうとしていることのジャマはしない。黒猫も回収した。鹿耳のエクスペリの赤いエアジンもな。もう障害はないはずだ。今回はドウターさえ叩けば、あとはもとどおり。そのあとはジェゼベル本人かもしれない首謀者を、せいぜい狩りだしてやるさ」
「運び屋が、そこまで入れこむ理由はなんだ?」
 カイエは肩をすくめた。
「……わかった、カイエ・デュ・パルマ」
 カルジェン統帥官は、おごそかにうなずき、カイエのそばまで歩いてくると、額に手をかざした。手のひらに常備してある高密度フローによって、部下への禁則処理を書き換えるのだ。
「痛くしないでくれよ」
「気色の悪い冗談を言うな」
 作業そのものは一瞬で終わる。その一瞬のあいだに、カイエは思う。
 ──さよなら、カルジェンのだんな。さよなら、ディートリック。
 長い永い一瞬のあと、統帥官は手を引いた。
 そして、勝ち誇る。
「残念ながら、そうきさまの思いどおりには運ばんよ」
 カイエは、沈黙した。
「わかっているだろうが、ミュールとしてのデータを集めることは、これまでどおりの禁則処理で可能なのだ。ドウターを攻撃するために、われわれのまえでもエアジンを自由に動かせる権利を得ようとしたのだろうが、そうはいかん」
 カイエは、沈黙したままだ。
「エアジンを呼び出すことまではさせてやる。それでドウターのガンウィスプには対応でき、捕獲もできるはずだ。だがきさまの制御下において、ドウター自身や、わたしや、その他ディートリック関連の人間に直接的な危害を加えることはできない。本人の行動も、もちろんな」
 カイエは、沈黙したまま答えようとしなかった。
「きみの監視と禁則処理を完全に解くにはわたしを殺すしかない。だが殺すためには禁則を解かねばならない。よくあるジレンマだ。人生の縮図だな」
 饒舌になっていたカルジェンティン・シダルタンは、つぎの瞬間起こることに気づかず、
「これからもディートリックをよろし……」
 苦しみはなかったと思う。
 呼びだせるようになった赤い腕が、目の前で『暴走』し、カルジェンをたたきつぶすのを──カイエは、沈黙したままそれら一部始終を冷ややかに見守り、ふたたび『修羅』を格納した。
 かれらが監視できなかった唯一の世界──それは、カイエの意識という格納庫の内部。
 すでに『修羅』を自家薬籠中のものとしているという思いこみが、カルジェンの致命的な油断を呼んだ。
「……」
 カイエは、沈黙したまま、きびすを返した。
 ──運び屋だのミュールだの、さんざん呼び続けてくれて、あんなに殺したかった相手を望んだとおりに始末して、いま得たこれが『自由』か。
 嘆息する。
 そう、いいものだとは感じられなかった。


 00W.

「かつて、な」
 と、あの男が語った夢をカイエは忘れていない。
「かつてな。われわれは大影響を経験するより以前に、いまとは異なる技術体系によって、星のかなたまで足を延ばしたという」
「なるほど。だれもが夢視る、未知の世界への旅ってやつだな」
「それを可能にする技術は、いまやディートリックも獲得しつつある。残されているのは必要性の提示と、そしてコスト面でのハードルだけだ」
「ふん」
 カイエは意地悪く鼻を鳴らした。
「実利第一主義のあんたらしくもなく、手段が目的なのか」
「そうだ。これこそがわたしの目的だった。このためにわたしはディートリックのモンストロ支部統帥官までのぼりつめた──」
 男はゆっくり、天へ向かって手を伸ばした。
「いつか必ず──ふたたび、そらへ」

 ──ああ、たしかにおれは、あんたの夢をだいなしにしたかもしれない。だがそのあまりにもささやかで幼い夢のために、踏みつけにされていいと思うほど、おれはロマンチストじゃなかった。
 おれはおれのささやかで幼い正義ロマンに生きるだけで、せいいっぱいだよ。

 カイエは、『黒猫プルートオ』が脱出口に使った穴とおぼしき、壁面の開口部までやってきた。これほどの破壊をやらかせるのはドウターにまちがいないだろうが、いまは、彼女のことはどうでもいい。
「『ファイヴ』戦闘起動」
 巨大な銀の手甲が一対、ゆっくりと姿を顕し──そのまま、ディータワーの壁をめりめりと引き裂きながら、ゆっくりと全身を出現させていった。
 555−95472──ファイヴ。
 かつてカイエにとっての『人生の母』からあやかってつけた、『ジェゼベル』という名をエクスペリの娘に譲り、ひきかえに娘の名をうけついだ、銀のエアジン。

 傾斜のあるタワー壁面から乗り出すように、全身を出現させた『ファイヴ』の面頬の奥に、鈍く輝く赤い意志がともった。
「さあ、決着をつけようか、『修羅』」
 右手から空中へ、赤いエアジンを解放。
「そして、『プルートオ』」
 左手から空中へ、黒いエアジンを解放。
 そしてカイエ自身は、乗りだしたファイヴの背中から内部に乗りこみ、背部装甲を出現させてコクピットを完成させる。
「高加速翼、展開」
 鋭い金属音とともに、銀の騎士『ファイヴ』が空中へ躍り出た。
 転落していく2体のエアジンは、そのまま大地に激突するかと思われたが、
「ぎををををををっ」
「ふぎあああああっ」
 赤と黒、それぞれの叫びとともに、下方へすさまじいエネルギーの塊を放出した。
「やはり、同タイプか!」
 あるエアジンを撃破するために用意されたエアジンは、最悪でも相手を消耗させるため、可能な限り近い系統の武装をほどこされるのが通例だ。
 やはり『修羅』は『プルートオ』を破壊するために存在する。カイエは確信した。
 だが、なぜだ?



「なぜ……だとおおおお!!」
 ツェッペは頬を裂かれ、鎖骨のそばの肉をえぐられた。素手の人間にこれほどのことを可能とさせる汲めども尽きぬ怒りとは、いったいなんなのか。
「知れたことだ……知れたことなんだよ、ツェッペりん」
 アイク・フージェスティガーは古創でも痛むかのように、顔の半面を片手で必死におさえつけながら、かれとしては驚異の精神力で自己抑制をきかせた低い声で唸った。
「プルートオは殺されなきゃならねーんだよ、なぜならな」
 もう片方の腕が、屋上のフェンスをギチリとつかんだ。
「やつはこっちをのぞきこんで、きやがったからだ!」
 ツェッペ・ホスシにはもはや、そのことばは届いていない。かれの感情はすでに恐怖にぬりつぶされかけていた。
 必死に踏みとどまってはいたが、もはや限界だった。ひとりで怪物と戦うには、エアジンのみを恃んで生きてきた少年はあまりに経験も覚悟も足りず、非力であった。
「!……!」
 アイクはまだなにかを叫んでいる。すでに理性がかすれて消え入りそうになっているツェッペには、うっすらとしか聴こえなくなってきた。
『カイエ』という単語が混ざるときまでは。
「か……いえ……?」
「そうだカイエだ! おまえこそなんでなんだよくそがきが! なぜあの野郎に肩入れする! おれたちをこんなとこに追いこんだのは、あの野郎だってのによお!」
「──」
 それは、
 それは。
 ツェッペの心臓の底に、なにか蒼くて熱いものがめらりと点された。
(……おれずーっと、まあいっかって思いながら暴れさせてたんだよ、『スカリーワグ』。
 使ってない。ふりまわされてるだけだ。べつに暴れてえわけじゃねーもんよ。
 でもいまなにもなくなって……)
 そうだ。
 顔を上げて、まっすぐ前を見据えて、アイクを見、そしてその向こう側を睨むようにして、大切なことがなにかをもういちど胸によみがえらせたとき、
 少年はさいごの力をふりしぼって、そして、叫んだ。
「『スカリーワグ』!!」
「のお!!」
 視界の先にいる3体のエアジン、カイエの『騎士型』、ジェゼベルの『赤い腕のエアジン』、そして『黒猫』たちへ向けて、じぶんのエアジンを走らせる。
「逃げやがるのか! おっ、おおー!?」
 屋上が、喚びだされた『スカリーワグ』の重量で崩され、落ちていく瓦礫に飲みこまれてアイクの姿は没した。ツェッペはじぶんのエアジンの指先にしがみつき、跳躍によるすさまじいGに耐えた。腕がゆるめばそれだけで宙にほうりだされるだろう。
 だが、ツェッペは怒濤のように流れていく風景へ身をゆだねることなく、ディータワーの麓へ『スカリーワグ』を着地させることに成功した。

 そして、眼前にそれが立つのを見た。
 獣の四肢で大地を穿つ、『プルートオ』のまがまがしい咆哮──
 そして、対峙する赤いエアジンの頭部に刻まれた口のような溝から、半身だけを乗りだしたエクスペリの娘が、鹿耳を隠す帽子もないまま、黒猫を睨んでいる姿を。

「ころせ。猫を殺せ」

 ジェゼベルの眼は、まともな焦点を結んでいなかった。

「猫を殺せ猫を殺せ猫を殺せ猫を殺せ猫を殺せ──」

 ばくん。

 頭部の溝が、彼女を喰い殺すかのように、閉ざされる。
 それは、エクスペリが、新型エアジンと一体化した瞬間だった。

 ──ねこ・を・ころせキル・ザ・キャット


To be concluded...